河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日の五十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第三十五回 「記憶にございません」

年金の不備(消えた年金)で保険庁は「みなさん、記憶をしっかり呼び起こしてください。そうすればあなたの年金は増えます」と、しかし、ほとんど効果がなかったという事だ。
それはそうだろう。そんな事が可能なら、仕事としてやっていた保険庁の人が記憶を呼び起こし、消えた書類を造り直せば一件落着するはずである。「人間とは忘れる生き物である」 それは、いちがいに悪いことではないだろう。私のように、いろいろ恥ずかしい思いをして生きてきた人間にとって、「忘れる」という事は、逆にありがたい事でもある。
近頃増えている自殺(自殺希望)する若者に、それなりに長年生きてきた私が言える事があるとしたら、ただ一つ。「悲しい事があっても、苦しい事があっても、人間は時間が経つと共に、だんだん忘れていくものである」と。
年金をもらっている人はもう高齢である。その人達に何十年も昔の事を思い出せ、というのは酷である。それが証拠に、国会議員が自分の事を問い詰められた時の常套句が「記憶にありません」であり、又、それで大体の事が許されている(そうでなかったら議員なんか、恥ずかしくてやっていられないだろう)。それを、一般国民に「それはならぬ」というのは、言語道断である。出来ない事を「やれ」というのは「無茶」というものである(舛添大臣はもう少し賢い人間かと思っていたが)。
ならば、年金はどうしたらいいか。「六十五歳以上の人間全員に(年金手帳のない人にも)生活できる最低額を支払う」とすればいい。格差社会の下流の私にも、上流のトヨタの社長にも(そんなハシタ金、どうでもいいだろうが)、同額とする。
年明け早々、またエラソウな事を言ってしまったが、どうせ又すぐ「忘れる」だろう。議員や、どこかの役人と違って、私のやっている事、言っている事など他人にほとんど影響を与える事がないから。
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