河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日の五十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第三十六回 「大人」

私は、昼食時にタモリの「笑っていいとも」というテレビ番組を見ながら食事をしている。
その番組のゲストのリリー・フランキー(東京タワーの著者)とタモリの対談で、リリー『自分が大人になってみて、若い頃に思っていた(想像していた)大人と自分は全然ちがう。例えば、若い頃の“怒り”が以前よりもっと強くなってきた』と、タモリ『オレは、大人というものになろうという努力はやめた』と、リリー『大人という人の使う言葉がむなしい』と、どうも今の大人の使う言葉が軽いという事らしい(まあ、そうは言っても二人とも言葉を操るその世界では、成功者である)。

私も大人(?)になってから、自分が自分の親(父)や、他の大人といわれる人を見ていた子供の頃の大人像と「自分はずいぶん違っているな」とずっと思ってきた。
だが、ある頃から、やはりそれでいい(今のままでいい)、仕方のない事、と思う様になり、今頃では、子供の頃は大人の虚像を見せられていた、と思うようになった。
大学生時代は、世間の大人(中でも大学教官や政治家のようなエライ人)の発する言葉を聞いて、「あいつらバカか」と、エラソウな事を言っていた。それでもどこか頭の片隅に「でも違うかも」という思いがあった様に思う。ただ、今頃は本当に「そう思う」。

年金問題で、政治家は「国民のために年金加入者の最後の一人まで納得してもらえるよう、最善の施策をとる」と、事ある度に「国民のため」という言葉を使う。民主党のもういい齢で物忘れもひどい議員だが、時々おもしろい事も言う渡辺恒三という爺様が、国会での政府に対する質問で、「国民のため、国民のため、と何度も言うが、それは当たり前の事。それ以外誰れのために政治をやる。あんまり当たり前の事を繰り返し言うと、逆に疑われてくる。金を借りて『必ず返す、必ず返す』と、当たり前の事を何度も言う奴は疑え、という家訓がある」と。又、何十年も前の事で資料も紛失しているのに、どうして最後の一人まできちんと調べてやれるはずがない、最善ではなく、最低限というべきであろう。やれもしないことを平気で言う、やはり「あいつらバカや」(これは私が言った言葉で、家族からエラソウな事を言う、と顰蹙を買った)。
又、C型肝炎の問題で首相「国の責任を認めて賠償金を払う」と、その解決法しかないだろうと思う。だが、国の責任(?)で金を払う=税金=国民が責任を取る(そんな政治家を選んだのは国民だから)、そこまではまだ仕方のない事だとしても、政治家、官僚の責任はあやまるだけで、何のお咎めもない。

どうも彼(リリー)も言っていた様に、今の大人の使う言葉というのは、か様にむなしく、国の最高機関でもこの程度である(言語明瞭、意味不明瞭──昔、そんな総理がいたな)。この数年、小泉総理の「改革々々」(何がどう変わったのか、わからない)、安部総理の「美しい国、やる気のある人を育てる」(自分は肝心な時にさっさと総理をやめた)、そして福田総理「国民のための政治」、やはり言語明瞭、意味不明瞭である。
それでは、「大人」とは何だろう。今の憲法下では、二〇才になると大人(成人)と見なされる。その時の定義は、よく成人式で言われる「自分の言動に責任を持つ」という事の様だ(ただし、その式典での市長町長の祝辞が代筆代弁で、それで自分の言動に責任が持てるのか)。
私の周りを見渡しても「自分の言動に責任を持てる人」はそうそうは、いない(もちろん私も含めて)。それでは、今の社会でどうする事なのか。私にはたぶん死ぬまでわからないだろう。わからないから、こんな文章を書いていられる。それとも、周囲からよく言われる「もっと大人になれ。もっと丸くなれ。周囲のみんなに合わせろ」。もっと歳を取ると考えられないことではないけど、私がそんな事をしたら、私を知っているみんなから「あいつ(私)もとうとうボケたか」と言われるのが「オチ」だ。

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