河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日の五十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第四十回 「勝ってくるぞと勇ましく…」

「勝ってくるぞと勇ましく、誓って故郷(くに)を出たからは、手柄立てずに死なりょうか」。国の威信を賭け、金メダル金メダルと言われ続けた北京オリンピックも終った。 「金メダルが獲れたのも、日本の皆様の応援があったからです」と、ただ柔道100kg超級の選手だけが「僕の努力のたまものです」と言っていた。元大リーガー(プロ野球)の選手が日本でプレーして活躍した後のインタビューに応ずる場面では、必ず「応援してくれる皆様のおかげ」と言う。どうも日本に来る前に「そう言え」と言われているらしい。オリンピックで金メダルを獲ったら日本選手も、そう言わなければいけないと思っているらしい。
確かに自分一人の力ではないだろうが、最も世話になったのは家族であり、会社であり…と周囲の人々があり、最後に国がくる程度のものである。まず最初に「カアチャンのおかげで金メダルが獲れました。カアチャン、アリガトウ」と言ってくれた方が、見ている者には感動が伝わってくるように思う(私だけか)。 そもそも国(日本)という概念を教育で植えつけられたのは、せいぜいここ一〇〇年ぐらいのもので、それまでは「薩摩」のため、「長州」のためといってやっていた人種である。せめて「加賀の国の人々のおかげです」ぐらい言えば、もっと見ている人に「ウケ」ると思うのだが(私だけか)。

さて、「日本国民の声援のおかげ」「自分の努力の賜物」で金メダル、と言っているが、私にはどうも「それだけではないだろう」という思いがある。以前、体操競技で金メダルを獲った選手が後日、その当時の事を「オリンピックに出るのは自分の努力でなんとかなる。しかし金メダルを獲れるかどうかは「運」による」と、最後の競技種目で着地が決まった瞬間、「これですべてが終った。金メダルが獲れた」と思ったと同時に、「これで自分の運をすべて使い果たしたな」と思ったらしい。それからはなるべく運を使わない様に生きて来た、と言っている(多少話をおもしろくしているが)。
また私がここ(養魚場)で近所の子供達を集めて、いい加減な家庭教師をしていた頃、その中の一人が高校生になって暴走族(バイク)に入り、周囲のみんなを悩ませていた(私の責任ではない)。それがある日、私の所へ来て、「暴走族を金輪際やめた」と、その訳を聞くと、「停車中の乗用車の後部からぶつかり、そのガラスを破り、フロントガラス(前部)まで破ってやっと止まったが、かすり傷で助かった」と、その時、周囲の人間達が「お前はこれで自分の運を使い果たした。今度は死ぬぞ」と言われ、自分(当人)も「そう」思って、これからはまともな運転をする、と誓ったらしい。私も「まったくその通り」と言っておいた。
今回のオリンピックでもやはり私は、金メダルは運がなければ獲れない、という思いを強くした。 例えば、日本中が興奮したあのソフトボール、アメリカに対して二連敗した後の優勝。私には、二連敗したから(わざわざ二連敗した訳ではないだろう)、三度目に勝てたと思う(たぶんアメリカチームも、いやな予感がしたと思う)。私も長年、草野球をしていて、野球(ソフトボール)には二勝一敗(一勝二敗)は「つきもの」だと思う。現にプロ野球リーグ戦の優勝チームは(六割)で、最下位チームは(三割)であり、同一カード三連戦で三連勝はめったにあるものでない。だいたいが二勝一敗(一勝二敗)である。故に今回最初に二連敗したのがよかったのだろう(好運)。金メダルではなかったが陸上四〇〇メートル・リレーで日本人として初めてメダル(銅)を手にしたのも、強いチームがみんなバトンを落とす、という好運があったからだ。
いまさら(オリンピックが終ってから)勝者にケチをつける気はないが、どこからも「運がよかった」という声がないから、金メダルを獲るには、個人の努力と周囲の応援、プラス運という事を言いたかった。 スポーツにかかわらず、世の中の勝ち負けに関して「運も実力のうち」という言い方があるが、勝者が勝手にそう言うだけで「運(好運)は誰れにでも等しくある」としておいた方がおもしろいと思う(本当はそうでもない様な気もする)。

ところで肝心の私の運(特に金運)はどうだろうか。
昔は歌手で「ヨイトマケの歌」で一世を風靡し、今はアヤシゲな占い師みたいな事をしている人によれば、「運の強い人(好運)のそばに居れば、自分にも運が回ってくる」と言っていた。そこで、さしあたり私の周囲を見渡したところ、あえて誰れとは言わないが(言ってはいけないが)、運(金運)どころか貧乏神にとり付かれた様な族(やから)ばかりが目につく。
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