河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日間際の六十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第四十二回 「年寄りの妄想か」

私の大学生時代、各地で大学紛争(改革運動)があった。
当大学(私のいた大学は金沢大学理学部生物学科)でも教官は学生の意見を積極的に取り入れ、又教官は助手、助教授、教授が同等の一票を持って大学の管理、運営にあたっていこう、という時期があった(様だ)が、その地位にかかわらず同等(平等)の立場で議論していたかは疑わしい(表面上だけ)。教授は助教授、助手よりはエライ、と思い、学生は教官の言う事を素直に聞く(だから大学まで来れた)。それが子供の頃からの刷り込み(教育)であり、そう簡単に変わるものではなかった。子供の頃から、学校では成績のいい者は当然発言力があり、そうでない者の意見は取り上げられる事は少ない。これが私の体験した子供時代である。そして成長して社会に出れば、その事が一層鮮明になり、両者が自分の立場を自ずと認識してしまっているのが(身に付いてしまっているのが)、今の格差社会である。日本における格差社会とは、生活レベルの違いがそのまま、発言力の違いになっている事だと思う。

ところが、この格差社会がますます広がっている今現在、奇妙な事を国が国民に押し付けてきた。それが裁判員制度である。全国民から、身分を問わず選ばれた(国が選んだ)人が皆同じ一票を持って、裁判員として裁判に参加する、という事らしい(もう始まっている)。その趣旨は「広く国民から意見を聞き裁判にそれを反映させるのが狙い」とか(この制度を実施するかどうかを何度も世論調査をしたが、一度も五〇%を超える賛成はなかった。広く国民の意見を聞いたらNO(ノー)と出たのに)。
格差社会(社会的地位)のトップという所にいるのが正式な裁判官である。世の中の試験といわれる、あらゆる試験の中で最も難解といわれている試験(司法試験)をパスして登り詰めた地位である。私だったら(私がその地位にいたなら)、一般人の裁判員に対しては「何を素人のくせに」と本心では思うだろう。又いま私の様に気の弱い一般的国民は裁判員にもし選ばれて、正式な裁判官に楯ついて意見を言う事は不可能だろう。
小泉元総理が「格差社会のどこが悪い」と言っていたのはたぶん「国民にとって大事な事は格上の人にまかせろ」という事だろう。現に国や政治家は「広く国民の意見を聞く」として、各種の審議会や第三者機関等、いろんな会があるが、ほとんどが学者、知識人(?)、有識者(?)、専門家(?)…でおよそ一般国民の出番はない。 一度、小泉政権で確か郵政問題で「広く国民の意見を聞く」と称して全国で公聴会なるものが開かれた。後でわかった事だが、わざわざ金を渡して発言者をしぼり込み、株主総会顔負けの事をやって、マスコミに避難された。いずれにしても「広く国民の意見など聞く」気はなさそうだ。又、冤罪が明らかになった足利事件の顛末を見聞きするにつけ、裁判所・検察に「改革の意志アリ」とは思えない。

だったらなぜ「国民全員参加の裁判制度」にこだわるのか。
それは、この制度をつくる過程で国(政府)が国民全員のしっかりした名簿を堂々と作製する事が可能になり、さらにその事によって、「来たるべき徴兵制度のデータを作れる」というねらいがあるのではないだろうか。
今の日本、二〇才以上の人間で「等しく国の命令に従わなければいけない(国民の義務)」という法律はない。ある時突然、徴兵制度(国民の義務)を言い出せば国中、混乱(反発)するだろう。幸い(に)、日本人は一度「国民の義務」が出来てしまえば比較的従順な民族だから、今から慣れさせておけば、今の裁判制度がそのまま徴兵制度にも使えるだろう。

話しは、まったく変わるが、タレントの「タモリ(―私とはほぼ同世代)」が年寄りにとってのいい趣味とは「妄想で、これだとお金もいらないし、ボケ防止にもなる」と言っていた。今回の話しも私の「妄想」であれば幸いである。
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