河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日間際の六十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第五十回 「エライ人(?)の言う事は何でも信用するな」

「お前はやればできる子だ」と子供の頃、私は周囲から言われていた記憶がある。たぶんどこの子供達も、同じ様な事を言われていただろう。大人になっても、少しニュアンスが違うが「やればできるのに」と言われる事があった。たぶん今頃は周囲はあきらめて「言っても(やればできるのに)だめな男だ」と思っているだろう。私の周囲にはそんな自営業者の人がゴロゴロいる様だ。「もっと酒をひかえて仕事をすれば」という庭師。「もう一冊ガンバッテ本を出せば」といわれている出版屋。「もう一窯多く焼けば」といわれている陶芸家等々である。もう少しガンバレばが、なぜできないのか、と言われれば「人間とはそういう生き物だ」という事だろう。独断と偏見。さて私の周囲にいる筋金入りの「やればできるのに(できただろうに)」は相変わらずそう言われながら何とか生きているが、どこもかしこも不景気な現在、「やればできるのに、もっとカッコよく言えば外(ハタ)から見れば余力を残してやっていた人がその余力を出し切らざるを得なくなって、ますます社会がギスギスして来た様だ。」自営業というのは、その「いつかやればできる」と言われながら余裕を残し「そのうち」と思っているからいいので「やってみたけどだめだった」では身も蓋もないだろう。そんなある日、テレビを観ていたら。学者(エライ人)らしき人が「人間の脳は半分も使われていない」と、それを観ていた視聴者(主に女性)の目が輝きだした。たぶん「うちの子供はもっと脳を使えば勉強ができるはず」と思っただろう。私に言わせれば「お前達がそうでなかったのに子供だけに無理をさせるな」と言いたい。今頃はやたらと人間の脳に関する話が多く、脳さえうまく使えば人生がうまくゆくと考えている様だが、体力にしたところでそうであろう。人間を生きてゆく(生きてきた)のに必要なのは、脳、体力等のあらゆる機能のバランスの上に成り立っている。そのバランスをうまく保つのには余裕が必要である。そのために人間は余力を残して生きる(生きてきた)のである。大して役に立たない勉強だけに脳の余力など使う事もあるまい。又大風呂敷を広げる話だが、動物の(人間も含む)進化がなぜ可能だったのか(まだ進化中)はこの各々の生き物の余力(脳、体力等を使い切っていない)がある(あった)からだと思う。古くからの能力を維持しつつ、いかなる変化(主に環境の変化)に備えて余力を持ち続ける。そして、その変化(存在があやうくなった時)に時間をかけ、あらゆる試行錯誤を繰り返し、その危機を乗り越えてきたのではなかろうか。一部の人間によって造られてきた本来の人間の姿(?)を無視した現在の人間社会で(競争原理でもって)無理やりにその余力を一気に使い切る(切れ)というのは、私の知った事ではないが、これからの(今現在も)生物界がおかしくなるだろう。

今、この文章を書いていて、思い出したのだが、私にもこれまで一度だけ「お前はやればできる人間だ」と言われた事があった。それは高校三年の時で、ほとんど大学受験勉強などしていなかった。さりとて就職する気もなく(自信もなく)、結局大学進学することに決め、時が押しせまってから、おもしろそうな大学を選んでいたら、「大学四年生になったら遠洋航海、実習として世界一周」という某有名大学水産学部が目に留まり、さっそく担当教官に「そこを受験したい」と知らせるため教員室に入っていった。そこで、その旨を伝えたら、周りにいた教員達が一斉におどろいた表情で私を見た。
そして、その担当教官が私に言ったのは「身の程知らず」であった。その時思ったのは「よくもバカにしてくれたな。見返してやる」だった。それから思い直して、一年間予備校へ通う事にした。だがそこの予備校のどこかに、予備校生の心得が書いてあり「一、異性に興味を持つな。一、ギャンブルに手を出すな。一、周囲は全部敵と思え」とあった。私「こんなのは、まともな若者の生き方じゃない」と勝手に言って、半年以上勉強はやらなかった。それでもさすがに受験が近づき不安になり、これでは去年の二の舞と思い、それからは何も考えず、ひたすら頭の中に知識を詰め込む受験勉強をやった。そのおかげ(何も考えず勉強した)で、とにかく地元の大学に入る事ができた(最初の世界一周の夢はかなわなかったが)。その時、周囲から「お前はやればできる人間だ」と言われた。だがその後がいけなかった。大学へは入ったものの、まったく勉強する気になれなかったのである。
日頃使っていなかった脳を急に使ったため、無理がたたったのだろう。挙句の果てに「大学へ入ったのだから、もうそれでいいだろう。後はいつ、やめるかた」と思う様になっていった。ただその間(存続中)は予備校の禁止事項と反対の事ばかりやっていた様だ。ストーカーまがいの事も、ギャンブルもやり、現在も付き合っている友人もできた。ただ周囲の目は私に対して「やればできるのに」という以前の評価に戻っていた。人間の体というのは本人次第でどうにでもなると思っていたが、長いパターンで考えれば、そうでもないらしい。体力に関しても昔からの例えに「火事場のバカ力」という言葉があり、実際、人間には自分でも信じられない様な力があるらしい(出るらしい)。だが、毎日そんな筋肉の使い方をしていると、一遍に壊れてしまうという、同じ様に脳だってそうだろう。どこかに余力を残し、「やればできるのに」と言われながら生きていくのが無難であろう。

さて、言い訳がましい私の話はそれくらいにして、現実の話に戻ろう。
先日大雪で仕事もないので困っているだろうと、あの庭師の所に行った。「雪で仕事がなく、春まで大変だろう」と言ったら、彼曰く、「庭師は冬は雪の下の植物と同じで、あわてる事もなくじっと雪の重みに耐え、やがて立春、啓蟄を経て春を待つ気持ちが高まる。そして、いよいよ春が来た時の、よろこびを誰よりも感ずる事ができる。これが庭師である」と、さすが働いている所はほとんど見ていないが、言う事だけは私よりはるかに説得力がある。人間のあるべき姿を言い当てているな、と感心させられた。ところで後日、彼の娘さんにそのありがたい話をしたら、「うちの父さん、春になってもたぶん仕事はないよ。そしたら朝から酒を飲んで、くだをまいているでしょう」と。私「聞かなければ(娘さんに)よかった」さらに、ようやくこの文章(私が精一杯働かないのにはそれなりの理由がある)をくどくど書き終わって、ホッとしたところで、いつかどこかでエライ人(?)が言っていた話を思い出した。「人間とは、年をとって死が近づくにつれ、それまでの自分の過去(自分のやって来た事に対して)を合理化しようとする(その様に脳が働く)。だから安心して死んでいける」と。世の中には、可愛げのない人間がいるものである。何も本当の事を言えばいいというものでもなかろうに。私「聞かなければよかった(エライ人の言う事を)」

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