01 02

林 茂雄





大岡昇平とパッション

 名作『野火』で知られる作家大岡昇平は、日本の戦争文学を語る上において、否、世界の戦争文学史においても、再度否、あらゆる世界文学の中においても、欠かすことのできない輝ける言葉の墓碑を建立した。『野火』、それから『俘虜記』と『レイテ戦記』は、その内容のみならず、その文体においても、非常に重要な足跡を残したといわねばならないだろう。
 昭和19年に招集され、フィリピンのミンドロ島に送られた大岡は、翌年米軍捕虜となりレイテ収容所に入れられた。その凄まじいばかりの諸々の体験は、上記の作品によって我々は追うことができるが、それも大岡の驚くべき記憶力の賜物である。その記憶力というのは、後になって想起する力というよりも、極限状況に置かれながらも理性の明晰さを失わなかった、当時の記録する力に負うところが大きいと思われる。
 極限状況と極限状態を注視し続ける大岡の視線は、目に映るものだけでなく、その視線そのものも捉えようとするほどに明晰である。その視線がかすれゆく時においても、そのかすれそのものを注視するかのようであり、意識が朦朧とするような時でも、こう表現できるならば、その朦朧を意識しようとするかのようである。
 その大岡に『よろめき葬送記』という小文がある。先輩中島健蔵の通夜に出た時のエッセイで、文学者が続いて死亡する現象を埴谷雄高が名付けたという「なだれ現象」と、自分の「ぼけ症状」についても語っている。  「七つ以上の故障を持つ身体になり」、その上に「左顎神経痛がはじまり、顔面にもしびれが走るように」なった大岡は、鎮痛剤を飲んで通夜に出掛ける。未亡人と語りながら、「私は顎が痛いといいながら、大声を出して、その顎を使っていることに気が付いた」「顎が悪いにしては、ひとりでしゃべりすぎている。まずい、と気が付いた」と大岡は自己反省をする。大岡は「気が付く」のである。それが彼の記録する力だ。戦場でも、老齢を迎えても。だから、もし本当に「ぼけ」になったとしても、大岡なら自分のぼけに「気が付く」のではあるまいか。その類い稀な能力の所以は、彼の情熱的な生命力によるとしか思えない。
 大岡は亡くなるまで創作意欲を失わず、病室にも原稿を持ち込んでいた。「あまり騒ぐな。お通夜も、葬儀もいらない」と話していたという。過酷な戦場においては「死して屍拾う者なし」ということは珍しいものではなかったろう。日本芸術院会員も辞退した大岡にとって、亡き戦友に対する負い目は最後まで消えなかったようである。そして、その負い目こそが大岡を最後まで書かせ続けたパッション(情熱)ともなったのであろう。
 そう、彼は情熱的な作家だ。大岡の魅力は理性と情熱がうまく共存しているところにある。ニーチェが『悲劇の誕生』で述べた如く、アポロンとディオニュソスとの劇的調和が大岡の精神には感じられるのであり、それによって数多くの傑作は産み出されたのだ。スタンダリアンでもあった大岡にふさわしい墓碑銘といえば、モンマルトル墓地にあるスタンダールの墓に刻まれた言葉、「書いた、愛した、生きた」ではなかろうか。



大岡昇平/生年1909年、没年1988年。享年79歳。死因脳梗塞。



はやし しげお  金沢生まれ。本人の妄想的証言によれば、フィリピンで米軍捕虜になったことがあるという。
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