01 03

林 茂雄





埴谷雄高と死霊たち

 戦後すぐ、しかも終戦のその日に文学への道を志した埴谷雄高は、その命が尽きるまで、『死霊』という作品に精魂を傾けた。半世紀もの歳月をかけた、その前代未聞の驚くべき思想小説は、第九巻を上梓したところで残念ながら未完に終わったが、それは「存在の永久革命」を謳った埴谷にふさわしい命運といわねばなるまい。
 『死霊』が文学作品として成功しているか否か、私は知らない。作品としての美しさをいうならば、『虚空』や『闇の中の黒い馬』といった作品の方が優れているかとも思う。しかし、観念と概念のみにおいて成るところのこの『死霊』は、私小説や抒情小説ばかりの日本文学史上において、ひときわ異彩を放っているばかりでなく、武田泰淳の『富士』と並び、ドストエフスキーやムージルらの作品と比肩し得る、世界の思想小説史上の恒星のひとつだといえよう。
 般若豊という本名を持つ作家埴谷雄高が胚胎されたのは、刑務所の中であった。最初左翼運動に身を投じた般若は、やがて逮捕されて刑務所に入った。壁に囲まれた獄中で哲学や文学を読み、執拗に思索を繰り返す中、「社会革命」よりも「存在革命」の必要性を悟ることになる。異次元への転向である。出所した埴谷は以後、独特の概念を操りながら、無限宇宙を凝視し続けた。
 埴谷が死去する前、NHKが五夜連続で『埴谷雄高独白・「死霊」の世界』を放映した。この番組は計六回のロングインタビューを基に構成されたもので、私はそのうちの一夜を亀鳴屋主人勝井氏と共に見たのであった。美しい夫人が出してくださった旨い果物の味とともに、その記憶は鮮やかに覚えている(後にNHK出版より『埴谷雄高独白・「死霊」の世界』は刊行された)。
 埴谷はその中でこう語っている。「やらなくちゃいけないと思ったのは、とにかく日本は、戦争のときに、うんと殺してうんと死んだわけですよ。だから少なくとも生き残った者は、うんと殺してうんと死んだエネルギーと同じぐらいのものを一冊の本に注ぎ込まなければ駄目だということですがね」「死ななかった以上は、死者の代わりにやらなくちゃどうしようもないですよ。大岡(大岡昇平)だってそうです。死者の代わりに『レイテ戦記』でも何でも書いている」と。死者の霊に促されて書くこと。それを埴谷は「精神のリレー」と呼ぶ。
 埴谷はまた『戦後の先行者たち』という同時代作家の追悼文集の序詩でこう書いている。「死んでしまったものはもう何事も語らない。(中略)ただなし得なかった悲痛な願望が、私達に姿を見せることもない永劫の何物かが、なにごとかに固執しつづけているひとりの精霊のように、高い虚空の風の流れのなかで鳴っている」と。
 世界は一冊の書物であり、歴史を貫き、固有名詞を横断して何者かがその巨大な書物を書き続ける‥‥。我々はここで、ヘーゲルやマラルメやボルヘスを引き合いに出すべきだろうか。それともムージルやブランショの名前をか。いや、彼らの名も死霊たちの列に並ばせておくことにしよう。書くという行為を「無限に対して挑戦する」ことだとする作家であれば、ここに列せられてしかるべきだからだ。それがたとえ到達不可能な試みであり、大いなる賭けだとしても。
 埴谷のエクリチュールは、あたかも宇宙の自意識を促そうとするかのように紡がれる。八十の齢を過ぎても、「自同律の不快」「未出現宇宙」「虚体」「ニュートリノの自我」「宇宙論的革命」といった概念をスッと差し出してくるこの老人は一体何者なのか。我々はただただ驚嘆するしかないではないか。
 死霊たちのざわめきとささやきのうちに、埴谷のつぶやきを聴き取り、そのあまりにも重く不可思議な精神のバトンを受け取れる者が、果たしているというのだろうか。そういぶかしむのではあるが、『死霊第十章』を、『続・死霊』を、どうして待たずにいられよう。



埴谷雄高/生年1910年(実際は1909年12月)、没年1997年。享年87歳。死因脳梗塞。



はやし しげお  金沢生まれ。本人によればローベルト・ムージルの生まれ変わりだという。
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