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林 茂雄





武田泰淳と諸行無常

 東京本郷に寺の次男として生まれた武田泰淳は、東大の中国文学科に入学後、左翼運動により逮捕され、拘留を経験した。太平洋戦争中に『司馬遷』を上梓し、敗戦後は1976年に逝去するまで数多くの小説を書き続けた。その中でも『富士』は紛れもない世界的傑作である。思想的重みとプロット構成の美しさを兼ね備えた作品は、そうざらにあるものではない。
 武田は政治活動の挫折と敗戦によって、独特の世界観を育んだが、それは「滅亡について」というエッセイの中に端的にこう表現されている。「すべての文化、とりわけすべての宗教は、ある存在の滅亡にかかわりを持っている。滅亡からの救い、あるいはむしろ滅亡されたが故に必要な救いを求めて発生したものの如くである」。滅亡は「それが全的滅亡に近づくにつれ、ある種の全く未知なるもの、滅亡なくしては化合されなかった新しい原子価を持った輝ける結晶を生ずる場合がある」と述べる武田は、あたかも、人間の終末においてあらゆる価値の転換が起こる時に「超人」の出現を謳ったニーチェを彷彿させる。
 我々は日常においては、「世界の持つ数かぎりない滅亡、見わたすかぎりの滅亡、その巨大な時間と空間を忘れている」が、「その滅亡の片鱗にふれると、自分たちとは無縁のものであった、この巨大な時間と空間を瞬時的にとりもどすのである」と武田はいう。こうした感覚はハムレットにおける「世界の関節が外れた瞬間」にも比せられようが、それが個人的な枠の中のことではなく、大いなる歴史を貫く人類の大河の中へと我々を導いていくのが、武田らしさである(埴谷雄高であれば我々は銀河の中へと導かれるが)。
 武田における世界の「滅亡」観のバックグラウンドには、中国文学から摂取した大局的視座、寺院で育ったための仏教思想も影響しているのであろう。すべての存在はいずれ滅亡する、すべての世界は諸行無常である、と悟る武田であるが、そこにはペシミズムだけでなく、メシアニズムもまた胚胎されている。
 武田は仏典『本生経』を取り上げ、仏が出現するための三つの予告のうち、「その第一の予告は滅亡である」が、その滅亡の予告は「平常の用意をはなれ、非常の心がわりをせよと要求している」ことを喚起して、「大きな慧知の出現するための第一の予告が滅亡であることは、滅亡の持っている大きなはたらき、大きな契機を示している」と、このエッセイを締め括っている。
 それでは我々は、「ある種の全く未知なるもの」、「新しい原子価を持った輝ける結晶」、あるいは「大きな慧知」であるところの超人的なものに希望を持つことができるであろうか。しかし、「その個体は、その生じ来たるものの形式、それが生じ来たる時期を自ら指定することはできない。むしろ個体自身の不本意なるがままに、その意志とは無関係に、生れ出ずるが如くである」という武田は、我々に安易に希望は与えはしない。
 しかしながら、慰めがないわけではない。武田の諸行無常の世界観には、安易な希望はないけれども、深刻な絶望もまたないのである。武田における「滅亡」は、「人間的な、あまりに人間的な」(ニーチェ)概念ではないのであり、希望や絶望といった人間的な尺度では測れないものなのだ。そこに慰めを見出すことは可能であるが、ただし、その慰めは、残念ながら我々人間のためのものではないのである。



武田泰淳/生年1912年、没年1976年。享年64歳。死因肝臓癌。



はやし しげお  金沢生まれ。本人によればフリードリッヒ・ニーチェの生まれ変わりだという。
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