01 09

林 茂雄





尾崎翠と第七官界

 昔の話だが、私はまず『第七官界彷徨』というタイトルに魅せられて、読んでみたのだった。驚いたことには、作品は私の期待を遥かに上回っていた。こんなに斬新でさりげない言語芸術が日本文学史上に存在したことに衝撃を受けたのだった。この作品は恋愛小説であるが、男女のそれではなく、苔への恋物語、いや、苔の世界の恋物語である。
 矢川澄子は「二人の翠をめぐって」というエッセイで、ドッペルゲンガー(分身)をキーワードに尾崎翠を読み解いている。矢川は尾崎がドッペルゲンガーに一方ならぬ関心を抱いていたとし、「尾崎翠は自分の作品を、たとえば男名前で発表しようなどとは一度も考えなかったのだろうか」と問う。ウィリアム・シャープがフィオナ・マクラウドという女性名で作品を出していたことを引き合いに出し、「作品を成功にみちびくための性転換」は、「完璧さの象徴としての両性具有願望の、端的な表れともみなされよう」と述べる。
 分身によって二つの性を獲得し、両性具有的な、あるいは中性的な世界を産み出すことは、密教のマンダラや陰陽思想、あるいはプラトンの説を引き合いに出すまでもなく、この宇宙の根源へと向かう運動に関係があるにちがいない。 尾崎翠はその作品の中で、生物の原初形態である苔(細菌)というミクロコスモスに自らを漂わせ、雌雄に分化される以前の中性的(無性的あるいは多性的)なエレメントを感得し、それを第七官界と名づけた。
 それ自体で充足しているものは球体である。珠玉の名品『第七官界彷徨』は、私にとって宝物のひとつだが、その特異な世界の形状は球体である。そういえば、珠玉という言葉も「たま」の冗語であり、宝という言葉も「たま」を内包している(ここで金井美恵子『タマや』を思い起こすのは我のみか)。また、球体とは観念=イデアであリ、霊的なものでもある(ミタマ、タマシイ)。そして、それは死の世界に近いものだ。
  『こおろぎ嬢』に次のような場面がある。「かくて、静かな葬列は、いろんな思いをのせ、着くべきところへ向って流れたのである」。ここには、うぃりあむ・しゃあぷとふぃおな・まくろおどが登場するのだが、まくろおどは「うぃりあむ・しゃあぷの骸のなかに、肉身を備えない今一人の死者として横わり、人知れぬ葬送を受けていたのである」。中性的(両性具有的)なものとは、観念的(精神的)なものであり、ゆえに霊的世界、死の世界に関わるものなのであろう。
 もうひとつ、『途上にて』の次の場面を引こう。「若者の死は、ともかく一行中の疑問でした。砂漠へ入ってからの日数。彼の年齢。そして死のポオズーー彼は普通の斃死者とちがって砂のうえに膝をつき、両手をさしあげ、ちょうど祈祷の姿態で死んでいるのです」。彼女の作品における死の場面はさわやかだ。その死様は壮年者のものでも普通の斃死者のものでもない若者の死であり、「蒼ざめてはいるけれど落葉のようにしなびてはいない」死なのだ。
 そう、彼女の描く球状の第七官界は、まだ大人に成りきらぬ年代にしか纏えない、微妙にして強烈な、儚くも凛とした、そして哀しさと清々しさが同居した、そんな雰囲気がある。だから、彼女の作品は十代に読みたいものであると同時に、死ぬまで何度も読み返したいものだ。これほどまでに、「美しい絵具がリスリンに溶解されていくような」(『第七官界彷徨』)、明るく、せつなく、美しいテクストは、容易に見出しがたい。私はこの球体のテクストをちくま文庫で読み返し、作者のたまゆらの青春に思いを馳せるのだった。



尾崎翠/生年1896年、没年1971年。享年75歳。代表作『第七官界彷徨』



はやし しげお  金沢生まれ。一目惚れは生涯に二度(最初は女優イザベル・アジャーニ、二度目はイヴ・クラインの青)。
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