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林 茂雄





内田百フと俄風

 三島由紀夫が切腹自殺した1970年と川端康成がガス自殺した1972年にはさまれ、忘れがたい偉大な作家が何人も他界している。前回書いた尾崎翠(1896-)のほか、若くして逝去した高橋和巳(1931-)、小説の神様志賀直哉(1883-)、風流詩人日夏耿之介(1890-)、そして内田百フ(1889-)がいる。
 実は、この連載で百フを扱うのはどうも気が重い。というのも、亀鳴屋主人勝井氏は大に大が付く百フ贔屓で(周知のこととは思いますが)、下手なことでも書こうものならもう稿を寄せるなと叱責を受けそうである。その贔屓振りは、岡山市国富瓶井(にかい)の丘にある百フの永眠する墓所を参ったほど。ここはスゴスゴと退散仕るべきところだが、逃げたら逃げたで文句をいわれそうだから困る(もちろん本当の勝井氏は心優しき人ですので念の為)。
 及び腰の前口上はこれくらいにして、さて百フである。本名は内田栄造。筆名の百フは故郷岡山の川の名から取ったという。東大独文科卒。学生時代から師事した夏目漱石の門下に入り、百鬼園とも号した。幻想味あふれる小説や飄逸なユーモアを湛えた随筆を発表。1950年の誕生日からは、百フの頑健さを祝う摩阿陀会(まあだかい)が知人や教え子たちによって開かれるが、その頑強さは体のみに非ず、芸術院会員も「いやだからいやだ」と固辞する我儘振りは、彼の数多くの作品にも窺われる。
 百フの世界には頑固、意固地、我儘があるが、それだけではない。おとぼけ、天真爛漫、優しさ、洒落っ気、可笑しさ、可愛さ、哀しさなどもある。その軽妙洒脱な筆は亀鳴屋主人ら通人をもうならす。その作品群も実に多彩で、初期の小説『冥途』や『旅順入城式』という逸品もあれば、珠玉の『百鬼園隨筆』や名作『阿房列車』もある。それとも『贋作吾輩は猫である』を筆頭に挙げるべきか、はたまた『ノラや』か(ここで回を続けて金井美恵子『タマや』を想起したのは我のみ?)。いや、一度百フに惚れれば、「すべてよし」となってしまうに違いない。
 百フは漱石の臨終の時のことを「漱石先生臨終記」に書き残している。「人の出入りが激しく、だれが何を云つてゐるのか、よく解らなかつた」「お葬ひは何日目の幾日であつたかも思ひ出せない」「今日ここで行はれている事は、私に何のかかはりもない様な気がしかけた」というやや放心気味の百フに、「時時寒い風が吹き過ぎ」る。他の弟子たちと手分けして、「墓場に行つたり、焼場に行つたり」して仕事を終えた百フは、式場で空いた席に腰を掛ける。連日の疲れでほっとひと息つく百フ。「うすら眠い様だなと思ひかけた時、突然、その気持ちとは何の関係もなしに、腹の底から大きな何だか解らない生温かい塊が押し上がつて来て、涙が一どきに流れ、咽喉の奥から変な声が飛び出して、人中でわめきさうになつた。」
 「何だか解らない」ものは素知らぬ顔をして、「突然」に襲うようにやってくる。俄かに吹き起こる風のように‥‥。こうしたものの描写にこそ、百フの骨法の真髄があるのではなかろうか。この《何だか解らないもの》をさりげなく行間から漂わせるマジック。
 百フはよく「気がした」「思ひ出せない」「解らない」「かも知れない」といった宙ぶらりんの言い回しを多用したが、意識がぼんやりとしていればいるほど、《何だか解らないもの》はその凄まじい正体の片鱗を現わす。「腹の底から」あるいは「咽喉の奥から」湧き上がってくるように、《何だか解らないもの》は文の底から、行間の奥から立ち昇る。芥川龍之介の死をめぐって綴られた「亀鳴くや」でも、「芥川の身のまわりが何となくもやもやしてゐる様で気味が悪い」様子が、もやもやした文体の底から染み出してきている。
 百フは1971年4月20日、ストローでシャンパンを飲み、吸いつけた煙草のかすかな紫煙を自宅の室内に漂わせながら、老衰で81歳の生涯を閉じた。墓所は先に述べた岡山市のほかに東京都中野区上高田の金剛寺境内墓地の右奥
にあり、御影石の石碑には「内田栄造之墓」と刻まれている。墓前右側に建てられている句碑には、「木蓮や塀の外吹く俄風」とある。



内田百フ/生年1889年、没年1971年。享年81歳。代表作『阿房列車』『百鬼園隨筆』など



はやし しげお  金沢生まれ。学生時代の一時期、中野区上高田の哲学堂付近に住んでいた。
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