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林 茂雄





森茉莉と美食

 貧乏をテーマにした1巻の文学アンソロジーを空想してみる。貧乏を書いた作家は多いが、し みったれた作品は入れたくない。だって身につまされるから。貧乏モノといえば、引越貧乏の 色川武大や亀鳴屋から上梓された『藤澤清造貧困小説集』などがあるが、絶対外せない作家 が二人いる。まず「大貧帳」モノの内田百フ。これほど凄みのある借金随筆なら読んでも楽し い。そして「贅沢貧乏」モノの森茉莉である。
 この二人は共に美食家でもある。 「昭和十九年ノ夏初メ段段食ベルモノガ無クナツタノデ」 記憶の中から好きな食物を集めた百フは、「さはら刺身 生姜醤油」に始まり、延々78品目、 更に14品目を加え、計92の品書きを連ねた。一方茉莉は、「ビスケットには固さと、軽さと、適度の薄さが、絶対に必要であって、また、噛むとカッチリ固いくせに脆く、細かな雲母状の粉が散って、胸や膝にこぼれるようでなくてはならない」(「貧乏サヴァラン」)というこだわりを書く。それぞれ漱石と鴎外という日本の二大文豪から大きな影響を受けた点も共通項だ。
 森茉莉は1903年1月7日、東京市本郷区駒込千駄木町に森林太郎(すなわち森鴎外)の子として生まれた。東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)付属小学校に入学するも、10歳の時に学校の教師と衝突して中途退学、私立仏英和(現・白百合学園)尋常小学校に転校する。茉莉はお嬢様として生まれるべくして生まれ、我儘っ子として育つべくして育ったので ある。16歳で結婚、19歳で渡欧。ロンドンで父鴎外の訃報を受ける。24歳で離婚、27歳で再婚するも翌年離婚して実家に戻った。疎開先から戻った戦後は一人で間借り生活を送りながら、小説や随筆を発表した。
 マリア(と彼女は自称)の貧乏ぶりは、彼女の部屋を訪れた室生犀星が思わず涙を落としたほどだったという(しかし、「私は貧乏でもプリア・サヴァランであるし、精神は貴族なのである」と自ら言う通りの高貴な貧乏だ)。その犀星の死について、マリアはこう書いているーー「もし犀星に、あなたの病気は癌ですと、しらせた時、彼がどんな文章を書くか、それは誰一人にだ ってわかりはしない。(中略)火のような文章か、又は氷のような冷たいのか、どういう文章にしても、この世のものではない絶筆を、書くだろう。(中略)遂に飛びかかった死の角を、両手で握って抑えつけながら、(中略)ペンの中のインクの青黒い滴りは、どんなに素晴らしい文章を、 原稿紙の上に滴らすだろう」と。
 しかし、それはマリアの一方の願望であり、他方ではそれが適わぬことを悟るマリアがいる。永井荷風は市川の本八幡の六畳間で、オーバーコートを着たまま嘔吐した上に倒れて死んで いた。森茉莉は荷風のような孤独な死に方に怖れを抱き、また作家としてのその生き様に気概を感じてもいたようだ。「永井荷風のその自己主義は絶対の、めざましい、素敵な自己主義である。その時は悲観したが、私は後で尊敬した」と茉莉は書いている。
 2003年の今年は、森茉莉の生誕100周年にあたり、それを記念して『森茉莉全集』が筑摩書房から復刊された(この美麗な装丁を手掛けた金田理恵さんには、亀鳴屋主人と共に神楽坂でご馳走になった)。三島由紀夫は晩年の長編小説『甘い蜜の部屋』を激賞したが、美少年の耽美的な同性愛を描いた『恋人たちの森』を好む人もいるだろうし(この作品集に収められた4 篇の結末はすべて死で終る)、『私の美の世界』をはじめとするエッセイも無類の輝きを放って いる。
 1987年6月8日の昼前、世田谷区のアパートでひっそりと死んでいる茉莉を家政婦が発見し た。死後2日が経過していた。その死には、荷風の死との類似点を見出すこともできよう(茉莉が犀星に望んだような壮絶さはなく、安らかなものだったとしても)。しかし、二度の離婚をしたその幸福とは呼べない人生を、孤独な老人の最後を、我々は哀れんではならない。彼女は父 に勝るとも劣らない独特の美的世界を我々に残すと共に、その波乱に満ちた人生を、貧乏サヴァランとして味わい尽くしたのだから。プリア・サヴァランの有名だが陳腐な言葉は、ここに置けば少しは意味を持つかもしれないーー「禽獣は喰らい、人間は食べる、知的な人にあって初めて味わうことができる。」



森茉莉/生年1903年、没年1987年。享年84歳。代表作『甘い蜜の部屋』など



はやし しげお  金沢生まれ。苦労が身につかない楽天貧乏と呼ばれている(これはホント)。
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