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林 茂雄





ユルスナールと静謐

 マルグリット・ユルスナール(Marguerite Yourcenar)は森茉莉と同じく1903年生まれで、2003年の今年は生誕100周年を迎える(奇しくも没年も茉莉と同じ1987年)。フランスの作家だが生まれはベルギーのブリュッセルの名家で、生後まもなく母を、二十六歳で父を亡くしている(この辺りのプロフィールも森茉莉との類似点がある)。ジッドやリルケの影響を受けながら小説を書き始めたのは二十代半ばから。『ハドリアヌス帝の回想』と『黒の過程』によって二度フェミナ賞を受け、女性初のアカデミー・フランセーズ会員にもなった。
 ユルスナールというこの美しい筆名は本名ド・クレイヤンクール(de Crayencour)のアナグラムである。彼女は早くから古代ギリシア・ローマの古典に親しみ、またコスモポリタンとして世界各国を遊学した。硬質ながらも格調高い文体によって、哲学的考察に富んだ歴史小説を残しているが、その奥行きのある作品の魅力は、該博な古典教養と異国趣味に裏打ちされている点にあろう。
 短編集『東方綺譚』では、古代中国の寓話、バルカン諸国のバラード、ヒンドゥ教の神話などから材を取り、九つの短篇を織り成した。そのほか三人の登場人物の高貴な情感が絡まり合う 『とどめの一撃』や、三島由紀夫についての評論『三島あるいは空虚のヴィジョン』などがあるが、事実と虚構を織り交ぜた二つの歴史小説(『ハドリアヌス帝の回想』と『黒の過程』)がやはり代表作となる。
 ユルスナール女史の円熟期に書かれた『ハドリアヌス帝の回想』は、近づく自分の死期を悟ったローマ五賢帝のひとりハドリアヌスが、後継者とさだめた青年マルクス・アウレリウスに向け、回想録形式で自らの人生を語るというモノローグである。皇帝が自らの死を受容しているためであろうか。読む者はこの作品全体が纏っている静謐な雰囲気に包まれる。
 死を自覚したハドリアヌスはこう述懐する。「人生はわたしに多くのものを与えた、少なくともわたしは人生から多くのものを得ることができた。今この時、幸福な時期と同じように、ただしまったく反対の理由から、生はもはやわたしに与えるべき何ものももたぬように見える。とはいえ生から学びとるものがもはや何も残っていないとは断言できぬ。(中略)一生のあいだ、わたしは自分の肉体の知恵に信頼をおいてきた。この友が与えてくれる感覚感動のかずかずを、識別しつつ味わうよう努めてきた。それゆえ最後の感覚をもまた味わうべきなのだ。わたしは自分のために用意されている臨終の苦悶をもはや拒まぬ」。
 そして回想の最後を締め括るのはこの詩的一文である。「小さな魂、さまよえるいとおしき魂よ、汝が客なりしわが肉体の伴侶よ、汝はいま、青ざめ、硬く、露わなるあの場所、昔日の戯れをあきらめねばならぬあの場所へ降り行こうとする。いましばし、共にながめよう。この親しい岸辺を、もはや二度とふたたび見ることのない事物を……目をみひらいたまま、死のなかに歩み入るよう努めよう……。」
 皇帝のモノローグをユルスナールは淡々とした筆致で紡いでゆく。ややもすると退屈に流れかねないが(正直いうと私は多少飛ばし読みしたのだが)、その抑制された文体ゆえに死を間近に控えた皇帝の内面を見事に照射し、落ち着いてはいるがすべてを語りつくそうというハドリアヌスの感情を読む者に強く印象づける(多田智満子の素晴らしい訳業もその魅力に手を貸している)。
 ここにもう一人、翻訳者の名前を出しておきたい。アントニオ・タブッキなどの翻訳で知られる須賀敦子は、『ユルスナールの靴』というエッセイを死の2年前に残している。ローマにあるハドリアヌス帝の廟を訪れた須賀は、そこでハドリアヌスの足跡を、そしてユルスナールの面影を追っている(そこに自らの旅の想いを重ね合わせながら)。須賀のこのエッセイに漂っているのもまた静謐な澄んだ空気だ。
 長い人生の旅路の果てに、様々な色彩と味覚が沁み込んだ荷をゆっくりと解こうとする人間の、静かな悟りと諦念が込められたこのモノローグは、もはやハドリアヌス皇帝だけのものではなくて、そこにユルスナールの影はもとより、多田智満子の影や、須賀敦子の影をも映しつつ、死にゆくさだめを背負った我々一人一人の影をもまた引き連れてゆくのであり、もはや固有名詞を持たない人間の、普遍的な告白ともなってゆくのだった。




マルグリット・ユルスナール/生年1903年、没年1987年。享年84歳。
代表作『ハドリアヌス帝の回想』『黒の過程』。




はやし しげお  金沢生まれ。昔からゼノンという名になぜか魅せられている。
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