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林 茂雄





安部公房と相対性

 イタリア語がもし読めたなら、安部公房の世界的傑作『砂の女』を、須賀敦子の伊訳で読んでみたいという気がする。きっと少し違った顔を見せてくれることだろう。
 安部公房には十代の頃に凝っていて、次々と読破していったものだった。なかでもやはり忘れがたいのは『砂の女』で、その読後感は今でもその感覚が蘇ってくるほど、強い印象をその頃の私に与えた。主人公が砂丘の村の穴に落ち込み、そこで一人の女と暮らさざるを得なくなるという蟻地獄的状況は、多くの男性が現実世界において身をもって体験するものに違いないが、『砂の女』を読めばその疑似体験ができること請け合いである。カフカを読むようになって、安部公房とは知らないうちに疎遠になってしまった。
 安部公房を形容する時、「カフカ的」と表現されることがしばしばある。それは決して間違っているわけではないだろうが、この世界が「カフカ的」であってみれば、これはもはや固有名詞の形容詞化ではなくて、ひとつの普遍的概念になるのであるから、あまりにも広い意味を担ってしまわざるを得ない。安部自身はカフカよりもカミュを読んでいたようだが、「不条理」という概念ならば確かにカミュのものである(カフカならばそこまで行かずにその手前の《戸惑い》や《彷徨》に留まる)。
 安部公房はエッセイ集『砂漠の思想』の中で、自身の奇妙な性癖を打ち明けている。「私はときどき妙な夢をみる。殺人をおかしてしまった夢なのである」―というまではまだいい。問題はこの続きだ。安部はなかなか寝付けない時に、「一番効きめがあるのは、なんと言っても武器をもって、誰かを殺そうと身がまえている状態を想像してみることなのだ」といい、「私は抜き身をふりかざし、むらがる敵中におどりこみ、あたるをさいわい、なぎ倒し‥‥と、次第に気分が静まってきて、いつか睡りにおちている」と告白する。
 安部の想像上の殺人においては、相手は「具体的な誰かであるよりも、ぜんぜん無関係で抽象的な誰かであるほうがいい」というのだが、そうした匿名性は安部の作品世界にも通じる面がある。名前を失い、題名通り壁になってしまう『壁』の主人公S・カルマ氏をはじめ、彼の作品の登場人物には、ちゃんとした名前を持っている人間は少ない。『砂の女』の仁木順平にしても、失踪後の手続上の必要から最後に氏名が明かされるだけであり、主人公である間は単なる男として物語は進行する。
 名前が語られずに代名詞やアルファベットの頭文字だけで済まされたり、便宜的な符丁としてのみ名付けられることで、作品世界は一挙に曖昧さを帯びる。主人公がいながらもそこに働く求心性が中和されてしまうのだ。そうした中和作用をバネにして、諸作品における様々な二項対立図式は相対的なものとなる。有機物ー無機物(『壁』)、正常ー異常(『人間そっくり』)、追う者ー追われる者(『燃えつきた地図』)、見る者ー見られる者(『箱男』)など、関係は容易に逆転させられ、表と裏の境界はいつしか曖昧になる。
 夢や想像の中で自身を殺す者の立場に置く、安部の奇妙な性癖も、おそらくは彼の中に殺される者としての立場が被害妄想的にあるためでないかと思われる。そうでなければ、彼の作品の中であれほど頻繁に《逃亡》や《失踪》が語られはしないだろう。相対性は殺す者と殺される者、生者と死者の関係にも見られる。
 安部は幻想作家ではないしシュルレアリストでもない。彼のほとんどの文章は非常に論理的であり、その気質はSF作家や推理作家のものだ。だが、理性の裏側から幻想(抑圧された?)が透けてくるところに、彼を読む面白さがあり、また無気味さがある。明快な構図だが陰のボリュームがそれを裏切っているデ・キリコのいくつかのタブローが想い起こされる(特に『燃えつきた地図』の挿絵として)。理性と幻想との関係にも、境界が曖昧になり、たやすく立場が逆転してしまう相対性があるようである。




安部公房/生年1924年、没年1993年。享年68歳。代表作『砂の女』。



はやし しげお  金沢生まれ。「葬送譜」では原則として回毎につながりを持たせているらしいが、そんなことは本人しか知らない。
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