佐藤 敬太


第3回 さよならの轍

永田さんへの手紙
 この冬一番の寒気におし包まれ、海辺の町は凍えています。
 夜来の雪が風にまかせて吹きまどい、葬儀場から運び出されたあなたの棺にも、小さなしみを散らしてゆきます。
 不思議なものです。訃報を知らされたときよりも、あなたの体が灰になろうとしているこの瞬間に、悲しみが実感となってのしかかるのです。
 ジイがかたわらでしきりに首をかしげています。
「おかしいなあ、なんでこんなに瞼が熱いんやろ」
 目を真っ赤に腫らしながら、それでも僕を見て笑おうとするのです。
 酒好きのジイとあなたが、夜通し飲んで語り合ったのは、ほんの二日前のことでしたね。七十をとうに過ぎた今でも、甲板を駆け回ってみなを鼓舞するジイのことを、あなたはいつもまぶしそうに笑いながら見ていました。なんでも教えてくれるジイなのに、肝心なことを一つだけ、あなたに云い忘れてしまったようです。
「君はまだ十分に若い。死に急いではいけないよ」と。
 あるいは、しだいに萎えしぼんでゆく命のきらめきを、あなたはうっすらと感じていたのかもしれません。残された時間をいつくしむように、思いのたけを語りつくそうとしたのではありませんか。
 あくる朝、番屋で顔を合わせると、ジイとあなたははまだ酩酊の夢の中にいました。僕を見るなり、あなたは云いましたね。
「俺たち年寄りは、今年かぎりで船を降りる。だから佐藤君、俺たちの分まで来年は頼むぞ。」
 それを聞いて、僕は本気で腹をたてました。
「なんて自分勝手な。乗らん、乗らん。俺は乗らんぞ。俺が乗るときはあんたらもみな一緒や。」
 するとあなたはにんまりと笑い、もろてをかかげて快哉の声をあげました。
「ほんとか、ほんとに乗ってくれるんやな。俺たちと一緒に仕事をしてくれるんやな。」
 そう云って僕の手を痛いほど握りました。かたわらでジイがにやけているのを見て、僕はすっかりあなたがたの術中にはまったことを知ったのです。これは後から知ったことですが、僕が正規の乗組員になれるよう、あなたは何度も船頭にかけあってくれたそうですね。本当のことを云うと、僕はずっと以前から、あなたがたの仲間になろうとひそかに決めていたのです。決してなまなかな気持ちではありません。酒や女性にはちょっぴりだらしないけれど、海の上では凛とした姿勢を崩さないあなたがたのことを、とても気持ちのよい男たちだと感じていたのです。ともに汗みずくになり、大漁の喜びに湧きかえるのを、誰よりも楽しみにしていたのは僕なのです。そのことを、もっと早くあなたに伝えるべきでした。
 責任感の強いあなたは、来年こそ自分に舵を握らせてほしいと、船頭に頭を下げました。僕には、今度鯨肉ですきやきをしようと云いました。「北国の春」を陽気に口ずさんでは、「これは君の故郷の歌だね」と云い、いつか一緒に行こうよと笑いました。小さな約束をいくつも反故にして、あなたは旅立ってしまいました。
 明け方船頭が電話をいれたときには、元気な声を聞かせたそうですね。前の晩に飲みすぎてしまったことを恥じ、「いやあ、まったく」と照れ笑いをうかべたそうですね。その後、突如苦しみだし、心肺停止のまま病院に担ぎ込まれたあなたは、懸命の処置のすえ、ふたたび息をふきかえしたと聞いています。そのことが、かえすがえす悔やまれてなりません。いましめを解かれ、「ああ、楽になった」とつぶやいたのに、どうしてすべての器官はそれっきり止まってしまったのでしょう。
 この雪が解け、荒涼とした海が春の静けさをきざし始めるころ、僕たちはまた漁へと向かいます。長いロープを海に浮かべ、網をしかけて魚を追います。そして海から戻ったなら、いつものように番屋に魚を持ってゆき、刺身をこさえてもらうのです。宴の準備が整いしだい、誰かを呼びに行かせましょう。壁を背にした座卓の隅が、あなたのいつもの席でした。そこにも湯のみを一つのせ、みなと同じ紙パックから、安酒をなみなみと注ぐのです。海を愛したあなたのために。寂しがりやのあなたのために。

昨年の暮れ、世の中がクリスマスにうかれている朝、仲間の漁師が急逝しました。
明るく、やさしく、仕事熱心な、素晴らしい漁師でした。
故人の好きだった鯖の刺身と日本酒が、どうか天国にもありますように。そんな願いをこめて、弔辞をささげます。
(写真はご本人とは関係ありません)
           佐藤 敬太(さとう けいた)
渋谷で脱サラし、能登で漁師になった噂の(ごく一部でですが)敬太。夢は日本中の海をめぐって漁と魚の本を書くこと。著書に『なまこのひとりごと』(本の雑誌社刊)。
http://kaizin.gogo.tc/
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