佐藤 敬太


第4回 風はらむ貝
 帆立貝の名の由来は、江戸時代に編まれた「和漢三才図会」の一文にあると云われている。その生態について「口を開いて一の殻は舟のごとく、一の殻は帆のごとくにし、風にのって走る」と述べたくだりがあり、ここから殻を帆のように立て、海面を風で移動する貝という意味で、帆立貝と名付けられたのだという。月夜の晩、無数の帆立貝がいっせいに海面を渡っているのを見た人がいるという話も聞いたことがあるが、どの専門書を紐解いてみても、帆立貝にこのような生態はなく、誤った俗説だと否定している。
 生き物の生態写真を出版社に貸し出すフォトライブラリーという仕事に長い間携わってきたので、帆立貝の遊泳する写真も何度か目にしたことがある。けれど、水中写真家が撮ってくるのは、どれも二枚の殻のすばやい開閉によって推進力を得ている写真ばかりで、残念ながら古書のいいつたえを証明するような幻想的なものはこれまで目にしたことがない。
 帆立貝が風をはらんで海を渡るというのはやはり単なる俗説なのか。それを検証すべく立ち上がった学者がいる。東京大学名誉教授で航空力学の第一人者、東昭さんである。研究室に大きな水槽をつくり、実際に風をおこして帆立を流す模様が「空飛ぶイカ、海面を走る貝 航空力学者・東昭の果てしなき探求」(NHK)という番組で放映され、興味深く観た。
 私がはじめて東さんの名にふれたのは、もう二十年近くも前のことだ。私が大切にしまっている本の中に「海からの手紙」(朝日出版社 絶版)という写真集がある。これは動物写真家として知られる岩合光明さんの初期の作品集であるが、この写真集の中で岩合さんは、インド洋で撮影した空飛ぶイカの写真を発表している。このとき写真を鑑定し、イカは飛翔の際脚の間に粘膜を張り、これを翼の代わりにしているのだろうと結論づけたのが東さんだった。確かに写真をみると、広がった脚と脚の間に薄膜のようなものが見えるが、粘膜を張るイカの話などむろんそれまで聞いたことがなく、ずいぶんと大胆な学説を打ち立てる人だなあと感心したのを覚えている。
 魚介類の粘膜と云えば、私にもこんな経験がある。何年か前、近くの浜でハマグリの稚貝が大量に発生したことがあり、私も知り合いの漁師から二度ばかりおすそ分けをいただいた。降って沸いたハマグリ豊漁はそれから一週間ほど続いたが、それがある日を境にぱったり捕れなくなってしまった。皆がこぞって出かけ、捕りすぎてしまったこともたしかに一因かもしれない。それにしても、突然一匹もいなくなるというのはどうも腑に落ちない。私は本棚から専門書を引っぱり出し、あれこれと調べてみた。そして面白い事実を知った。案外知られていないが、ハマグリの小貝はゼラチン状の粘膜で覆われている。彼らは移動の際、この粘膜を細くたなびかせ、そこに潮をうけて海中を移動するのだという。何千、何万という貝が、海中をゆらゆらとただよいながら次の寝床を求めてさまようのである。波の下では、私たちの想像もつかないことが起きている。
 同じ船に乗っている船頭の的場さんは、素もぐり漁をしていてサザエが泳ぐのを見たことがあるらしい。普段は硬い殻に身を潜めているサザエが、そのときは殻からのびきった身をだらしなく海流にあずけ、海中を流れていったという。
 鈍重な貝類にとって、潮や風といった自然の生み出す流れは、大切な移動手段となりうる。それを考えるなら、帆立貝が本当に殻を立てて移動したとしても、あながちあり得ない話ではないような気がしてくるから不思議だ。とは云っても、海洋生物の生態に詳しい学者や研究者の大半は、やはりこの伝承をおとぎ話程度にしか考えていないだろう。三陸地方で漁師をしていたころ、帆立養殖の仕事も何度か手伝ったことがある。少なくとも私が知っている限り、帆立貝は風をはらむほど殻を大きく広げることはできない。
 くだんの番組では、さまざまな実験や漁師への取材などをとりあげていたが、結局伝承の真偽を明らかにするところまでは至らずじまいだった。しかし私にとってそれはどうでもよいことだった。そんなことより、他の研究者たちが俗説だと簡単に片付けてしまう伝承に正面から光をあて、科学の力で解明に挑もうとする学者としての東さんの姿勢に爽快なものを感じた。 
 子どもが空を眺めながら、風のゆくえに首をかしげる。そうして生まれた疑問が好奇心や探究心をふくらませ、学ぶことへの潜在的な欲求をはぐくんでゆく。その延長線上に東さんの生き方はあるような気がする。
 子どものころ、私は級友たちにくらべて知能の発達が遅く、勉強が苦手だった。漢字テストがあると、担任の先生はいつも順位表を廊下に貼り出したので、私は一番下に書かれた自分の名前を眺めながら、どうしてこんな見せしめのようなことをするのだろうと悲しくなったものだった。もし東さんのような人が学校の先生だったら、こんな私でもわくわくしながら授業を受けられただろうにと思うのだが、それはやはり劣等生のひがみなのだろうか。

 追記
 先日友人たちと居酒屋へ行ったら、私がいたこともあり、漁の話になった。年輩の友人たちが云うには、志賀町には昔帆立の缶詰工場があったのだという。今から三、四十年前に帆立が大発生した時期があり、そのとき加工場が建てられた。帆立漁の漁師たちの中には、遠く山陰から来ている者もいたらしく、彼らは云った。帆立を追って俺たちも北上を続けているのだと。帆立は確かに移動する。殻の開閉による推進力で、長距離を移動するとはどうしても思えない。彼らは、いったいどうやって能登までたどり着き、ここから去っていったのだろう。疑問は残る。
           佐藤 敬太(さとう けいた)
渋谷で脱サラし、能登で漁師になった噂の(ごく一部でですが)敬太。夢は日本中の海をめぐって漁と魚の本を書くこと。著書に『なまこのひとりごと』(本の雑誌社刊)。
http://kaizin.gogo.tc/
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