『テーマ館』 第18回テーマ「崩壊」



 「現実崩壊なんか書けない」   by しのす


ラジオが鳴って目が覚める。タイマーでセットしてあるのだ。
ベットから出て、歯を磨き、顔を洗う。
鏡の私はまだ眠い顔をしている。でもショートカットが似合わない
いつもの私の顔だった。
「朝食は食べなきゃ駄目よ」という母の口癖どおりに、トーストと
インスタントのコーヒーを口に押し込む。
服を身につけ、テレビの上の猫のシス(人形だけど)に「いってき
ます」と声をかけて会社に向かう。
会社ではコンピュータに向かって事務的な仕事を一日こなす。
そして帰宅。「ただいま」とシスに声をかけて夕食。コンビニで買
ってきたお弁当。後は気に入ったドラマがあればそれを見て、お風
呂に入って寝るだけ。
まったく同じ毎日の繰り返し。
REPEATがかかっているかのように同じ単調な日日。
このまま私は年老いて、たった一人で死んでいくのかしら。

しかし次の日の朝は違っていた。
まずラジオが鳴らなかった。
それでも習慣で目が覚めたのだが、タイマーが止まっていた。
不審に思いながらも起きて歯を磨いていると違和感を感じた。歯ブ
ラシを見ると、なんだかいつもと違う感じがした。
鏡を見ると、なんだかいつもの自分と違う顔のような気がする。
そんなはずはないと自分に言い聞かせて、トーストを口にするとお
かしな味だった。コーヒーもいつも以上に苦い。
いったいどうしたんだろう。いつもどおりの朝ではないなんて。
と、電話が急に鳴った。私に電話をかけてくるような人の心当たり
はない。
私はおそるおそる受話器に手を伸ばした。
「もしもし・・・」
「そろそろ気がついたんだろ、J3。今こそ覚醒の時だ」
押し殺したような男の声が聞こえてきた。聞いたことのない声だっ
た。
「だれ、ですか?」
「だれ、ですか?」男は私の声を真似て言うと、くくくと笑った。
「スリーパーの擬似記憶が強すぎてわからないか。解凍の言葉が必
要だな」
スリーパー?擬似記憶?解凍?
わけのわからない言葉を連発する電話の声に私は呆然と受話器を耳
に押し当てているだけだった。
「Hello, you're my cat, Ciss!」再び笑い声「どうだ思い出したろ
う?」
思い出しただろうか?なにを?私の頭の中はぐるぐるまわっている。
何がなんだかわからない。
「お前は最高のスパイ、J3だ。いいかげん目を覚ませ・・」
私は電話を切った。
スパイ?この電話はいったい・・・。
「あ、単なる間違い電話だ」
私はそう思った。誰かが間違えてかけた電話。それとも誰かのいたず
ら電話?
でもこんないたずらされるほど親しい友達はいない。ましてや男とな
るとまったく覚えがない。いったい・・・
電話が鳴った。じっと電話機を見て、ゆっくりと受話器をとる。
「J3。これはいたずらではない。間違いでもないんだ。しっかり・
・・」
電話を切る。切った後で、受話器を外した。これで電話はかかってこ
ないはず。
これはいったいどういうことだろう・・・
「だからJ3。擬似記憶が強すぎたんだ」受話器は外れているのに、
部屋のどこからか声がする。「お前は平凡なOLなんかじゃない。並
み優れたスパイなんだ。今までは自分がスパイであることを隠すため
に嘘の記憶を植え付けられていたが、もういいんだ。今こそ活動の時
だ」
私はめまいがした。頭がおかしくなったのだろうか?
とにかくこの部屋を出よう。
着替えて部屋を飛び出した。

外に出て、シスに「いってきます」て言わなかったことに気づいた。
まあ、どうでもいいことだけど。
道を歩いていると通勤途中の会社員や通学中の学生とすれ違う。誰も
が自分を見ている、監視しているような気がする。
今までどおりの自分ではなくなったような気がする。今までどおりの
町でもない。
平凡な毎日が急変してそこから危険な真実が顔を覗かせたような。
真実? 平凡な毎日こそが真実のはず。やはり頭がおかしくなったのか?

歩いていると気が落ち着いて、会社に向かう気持ちになった。
遅刻したことを課長にあやまって自分の席につく。
昼近くになって、食堂に行こうかと思った時、ディスプレイが黒くな
って画面一面に文字が現れた。

Hello, you're my cat, Ciss! Hello, you're my cat, Ciss! Hello, 
you're my cat, Ciss! Hello, you're my cat, Ciss! Hello, you're 
my cat, Ciss! Hello, you're my cat, Ciss! Hello, you're my cat,
 Ciss! Hello, you're my cat, Ciss!

「どうしたの?」隣りの席の太田さんの声で正気に戻った。太田さんは
心配そうに私を覗き込んでた。「大丈夫?」
まわりの人たちもみんな私をじっと見ている。
私は急に叫び声をあげて、立ち上がったらしい。
「ディスプレイに、文字が・・・」
ディスプレイに目をやるといつもの画面だった。
「すみません、気分が悪くて・・・」
私は会社を早退することにした。

誰もが変な女だと思ったことだろう。
私は失意に打ちひしがれながら町を歩いた。自分の部屋に帰るのもこわ
い。
買い物でもして気をまぎらわせよう。
ぶらぶらと店を見てまわるうちに気も晴れてきた。映画を見ることにし
た。
映画にのめり込んであっという間に2時間が過ぎた。
「J3。いいかげんに目を覚ませ」
タイトルバックで立ち上がって出口に向かう時に背後から声がした。熱
い息も耳にかかったような感じがした。
はっとて後ろを振り返るとそこには誰もいなかった。

気がついたら自分の部屋にいた。
どこをどういう風にして帰ってきたか覚えていない。
身体ががたがた震えて止まらない。
一体私の身になにが起こっているのか?
もしかしたら私は本当にスパイJ3なのか?
いや、そんなことはない。私は普通のOLの私だ。
単に頭が狂っているのかもしれない。
会社のあるプログラマーは誰かに監視されている、部屋を盗聴されてい
ると言い出し、ついには精神科のお世話になってしまった。
私もそうなるのかもしれない。

その時、ドアのベルが鳴った。
「J3、迎えだ」と声がした。
私はドアを見たまま凍り付いて動けなかった。
現実が崩壊するのか、それとも人格が崩壊するのだろうか・・・

(投稿日:05月16日(日)6時20分33秒)