河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日間際の六十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第五十二回 「もっと金を出せ(特に金持ちは)」

「日本人はこの大災害でも秩序ある行動を取り、暴動、略奪を行う人間などいない。じっと耐え、やがて復興するだろう」と諸外国からお褒めの言葉もあり、今、日本はその雰囲気でもある。だが、一ヶ月たった今でも復興どころか、まともな食料さえ行き渡っていない。地震、津波、それに追い討ちをかけた原発事故、政府はそれに対して「いくら金がかかるかわからない(金がない)」と。被害にあった人々は、わずかな援助に感謝の意を表わしていて、文句など言わない。それを見て、被害にあっていない国民は「ガンバッテ」と言っている(もう十分ガンバッテいる)。被害にあった人々は、「もっと金を出せ。物を寄こせ。それを要求するだけの権利が自分達にはある」と言ってもいいのではないだろうか。

人間とはバカな生き物である(もちろん私も)。危ない危ない、と言われながら原発を日本中に造り(私は原発はなくすべきだと思っている)、又日本中、どこでも起こり得ると言われながら、遠い将来の事と安易に考えていた今回の地震。たまたまそのどこで起こっても不思議でない事が、東日本で起きたのである。そして、大きな代償を払ったのである。人間の歴史はその代償のおかげで(失敗に学んで少々利口になり)、しばらくは安定した生活を送る事ができている。でも、又、同じ事(失敗)をくり返す。今回の被害により、この先の安定を得るための教訓と知識を国民にもたらしてくれたかを考えた時、たまたま今回、運がよかった(被害に会わなかった)人々が、「ガンバッテ」だけで済ます訳にはいかないだろう。「もっと金を出せ」

現代は情報(教訓、知識)の時代である。情報こそが金になる時代である(だから情報に疎い私は貧乏である)。アメリカ、フランス等の諸外国が救援という名目で続々日本に来ているが、原発を推し進めている国々にとっては、計り知れない情報(大金に値する)を得るであろう。それが救援の第一の目的である。多くの教訓と知識を得たのだから、ごっそり大金を置いていってもいいくらいだ。何も外国にたよらなくても(金を)たまたま被害に会わなかった日本国民が、その代償として(今回得た教訓、知識に対して)所得に比例して金を出せば、十兆、二十兆の金はすぐ集まるだろう。どんな金持ちだって今回の地震、津波に会えばひととまりもない、という事を実感しただろうし、原発事故のおそろしさも実感しただろう。人間は(私も)失敗からあまり学ばない。それでも、それからしか学べないという事実。地震、津波、原発事故、多くの命と引き換えに得た情報(教訓、知識)、それに金を払え、何も貯める(金を)だけが能ではなかろう。生きた金の使い方をおすすめしたい。多くの物、命を失った人々にはこれまでいろんな生き方があっただろう(各人、各様の生き方)、今「日本中、心を一つにして復興のためガンバロウ」という、国中にそんな声が飛び交っている。被害者には若い人もいれば、高齢者もいる(その方が多い)。すぐ立ち直れる人もいれば、傷を長く引きずって生きていかなければならない人もいる。やはり各人各様だ。

私だったら(私が被害者だったら)どうするだろうか。「まあこの齢だから、先の事などわからない。又、一からやり直す元気がでるかどうかわからない。しばらくゆっくりしてから考える。さしあたって当座をしのげる金と物をくれ。お前らの代わりに被害に会った様なものだから。それくらいはしてくれてもいいだろう」。
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第五十回特別編 詩「今」