河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日間際の六十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第五十五回 「雨ニモマケズへの独断と偏見」

「雨ニモマケズ」と
 生きたこの人達は
 今、何 思う
 雨ニモマケズ   宮沢賢治

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋(イカ)ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
日本人に最も好かれているという、この宮沢賢治の詩は私はきらいだ(きらいだった)。小・中学校までは「雨ニモマケズ、風ニモマケズ、なんて自然に打ち勝とうとするのは人間のオゴリだ」とエラソウな事を言い、そして青年になってからは、「日本人の誰れからも愛される一人」と言われる事に「私のようなひねくれ者は、この『誰れからも』と聞くとすぐ疑いたくなる」というので気にくわなかった。だが本当の所は、小中高といつも勉強ぎらいだった私に、教師や周囲の人々が上から目線で、この「雨ニモマケズ」の詩を引用して「お前は(お前達は)ダメな人間だ。もっと忍耐と努力しろ」と言われ続けていた事への反発であった。小中高ではこの詩の好きな教師が多く、この詩が教室の学生の一番目につく所に毎日自分達(学生)を見下ろす様に張ってあった。大学でも当時左翼系の教官といわれる人の室にも、入ってすぐ学生の目に入る様にこの詩があった。この賢治の詩は他人から聞かされ(引用され)ておぼろげに知ってはいたが、自分で読んだ事はなかった。

今回この宮沢賢治の出身地岩手県をはじめ、東北は地震、津波、原発事故で壊滅的な被害に合い、そこから(被害から)立ち上がろうという、かけ声によくこの「雨ニモマケズ」の詩が登場する様になった。どうもこの詩が東北人の復興に必要な「忍耐と努力」のお手本となる様に思われている様だ。ある人に「私は賢治のこの詩を読んだ事がないから、全部正確には知らないから教えてくれ」と言ったら、「お前はそれでも日本人か」と言われた。よく知らなくても、平気で批評するのが地位もなく、金もない私の特徴である。

さて、私がきらいな(きらいだった)この詩を実際に読んで賢治が少々気の毒に思えて来た(私の文章だったら、言わんとする事は簡単で、己の不満をみさかいなく相手にぶつける)。人は文章を書く時には、私の様に「読みたい奴は読め」と言ってはいるが、それでも一人でも「読んでいる」と言われれば、それは励みになる、誰れかに向って、そして「私はこう考えますが、私の考えに、あなたもそう思いませんか」と問いかけている様なものだと思う。

賢治も最後に「サウイフモノニワタシハナリタイ」とわざわざしめくくっているのは、彼の強い意志(うったえ)があったのだと思う。私の恩師の奥野さんは、私(自分)が文章を書くと言った時、「自分の事を書け、それも自分の置かれた立場に立って、それが他人(読んだ人)に一番、伝わる」と。「ワタシ」はそう思う(そう努力する)けれどあなた方もそう思いませんか(そう努力しませんか)のメッセージが賢治の詩に込められていると思う。私の様なトシで、相当根性の曲っていて、又人の上に立つつもりのない人間には「サウイフモノ」にはちょっと遠慮したいが、賢治の生きた時代、そして生きた環境(貧しい東北の田舎)を考えると、「ワタシも努力するけれど、あなたも努力しませんか」と訴えたその相手(あなた)が見えてくるように思う。賢治の生きた時代の東北(岩手)は、中央政府が行なう政治の恩恵に浴する事もなく、見捨てられた様な農民の暮し、私の様に自分の事は棚に上げて「政治が悪い」などとは言わないにしても、賢治ほどの人物なら当然、その矛盾は感じていただろう。そして農業高校の教員となって教壇に立ち(自分の置かれた立場に立ち)、将来のこの国(県)の農業を背負って立つ生徒達に語りかけていたすべてのものが凝縮された形となったのがこの詩ではなかろうか。

すべての農家の人達に「まずしくとも耐えて努力しなさい」とは違うと思う。賢治の生きた時代の東北はまずしく、さらに戦争が近づく頃にはもっとまずしく、あの日本が戦争に向うきっかけとも言われている陸軍の若手将校達が決起した二・二六事件、彼ら若手将校が中央政治から取り残された惨状(娘を売る農家の姿等)を目にして決起した、という手記を残している。さらに戦争中は兵員としても最前線へ送られ、結果多くの働き手を失っている。戦後は都会の復興のため、多くの農民(農家)が家族と別れて出稼ぎに出て、そしてその延長の都会のための電力として今、「危険な物(原発)は東北で」と、いつの時代(戦前、戦中、戦後)も中央政府の勝手に振り回され続けて来た東北、いつの時代(戦前、戦中、戦後)も東北民(国民)に愛され続けて来た宮沢賢治、どこか変だろう。

あの時代(賢治が生きた時代)も今も東北がよくならないのは、東北で(中央でも)賢治の「雨ニモマケズ」の本当の精神を持ち合わせた指導者がいなかったからであろう。今回の原発事故でも権力闘争で東北を放っぱらかしている政治家、自分達(会社)の保身ばかり計る東京電力、「雨ニモマケズ」、あれは指導者としてのあるべき姿を言い当てている詩であるから、国会正門にでも張り付けるべきである。「雨ニモマケズ」を勝手な解釈(?)で教室の高い所から生徒をにらむためのものではない。教員室か、校長室に張って「己を戒める」ためのものである。私の「雨ニモマケズ」の解釈が合っているとか、まちがっているか、そんな事はどうでもいい。今回の震災で否応なしに新しい町造り(国造り)を余儀なくされた東北地方、又これまで通り、中央の指導者の言う通り、農民達だけが、これまでの解釈(上から目線で)の「雨ニモマケズ」でただひたすら忍耐と努力でガンバレでは東北はなにも変らない。

今、自分達の事しか考えない政治家や、御用学者が言っているほど原発事故による放射能被害は甘くない。これから先、何年も東北(日本中かも)は苦しめられるだろう。ヘタをすれば将来を担う若者(農民等)が自分達の土地を捨てる(捨てざるを得ない)かも知れない。そうなった時自分達の土地に留まって一緒に将来の夢を語れる様な指導者「雨ニモマケズ」が現われるだろうか。

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第五十回特別編 詩「今」