河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日間際の六十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第五十七回 「国の義務と国民の権利」

「国民の生存権と国の社会保障的義務」「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」
これが日本国憲法第二十五条である。これ(憲法)によって、この国の現在の在り方、そして将来への方針が決まっていくはずである。だがつくづくこの国(日本だけでないが)は「仏、造って魂入れず」である。もっとも、この日本国憲法がつくられて以来、今日まで指導者によってこれが守られてきた事はなかっただろう。人間という生き物(?)の「あるべき姿」を、頭の中で考えた知識人(?)の理想かもしれない。ただ、憲法九条(戦争の放棄)と同様「理想を追求する、というのも人間」とするなら「それも、よし、とするか」と私は思う。ただ現在の競争(格差)を前提とする社会と、二十五条の両方の精神でやっていけるほど、人間(私)は器用(?)な生き物ではないと思う。さて、初っ端から、又地位もない金もない、さらに働く意欲もない人間がエラソうな事を言ってしまった。

震災以後、この憲法二十五の精神、さらに国民の「知る権利」がますます遠ざかっていく様に思えてならない。国の指導者達は国民に本当の事を言わず(知る権利を無視)、「金が掛かるから、ガマンして、ガンバッテ」としか言わない。今回の原発事故で放射能におびえ、先の生活の不安におびえている住人、どうみても「健康的で文化的な最低限度の生活」とは言えないだろう。又地域の指導者も国に「お願い」の態度である。なぜ堂々と「私達には憲法にもある正当な権利だ」と主張しないのか。国も「経験のない事態なので、どうしていいのかわからない」という体である。原発事故、起こしたのは国、東京電力であり、住人の正当な権利(健康的!)を奪ったその張本人である。何を能天気な事を言っている。今すみやかに誰れのために、何をすべきかしっかり憲法を読み直し、その主旨を理解すべきである。
 本来。規則(法律)というものがなぜ必要かと言えば、こちら(東電)を立てれば、向こう(住人)が立たず=利害が相反する時に適合されるものであり、その時基本となる考え方が憲法の中にある。

追伸

「新しい原稿書けたか」と龜鳴屋主人。「その内、持っていく」と私。後日、「原稿持ってきて」とまた龜鳴屋。「部屋のどっかにあるだろう。捜して持っていく」と私。
ところが、カレンダーの裏に書いた原稿(いつもの事)が見つからない。ゴミ箱の中をあさっても(何度かあるパターン)見つからない。どう考えても、私の原稿が盗まれる訳がない。
「よくわかっていない憲法まで持ち出してエライ人の悪口を書くのは勝手だが、お前の書いた文章など、エライ人達は誰れも読まないだろう。もっと地に足をつけて文章を書け」と龜鳴屋は言うだろう。

結局なさけない気分で新しい原稿を書く。気持ちに余裕のない時の私の文章は理屈っぽくなる。

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第五十回特別編 詩「今」