河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日間際の六十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第六十五回 「ぼくの道」

「ぼくの前に道はない。ぼくの後ろに道はできる…」これは有名な詩人、高村光太郎の「道程」という詩ので出しの一節である(実はそこしか知らない―私の詩に関する知識とはそんな程度)。私が確か一浪して受験のため通っていた予備校での国語テストの作文(私が希望していた金沢大学で受験の国語の科目に作文があった)の題が「道」だった。(大学受験本番では「手」だった―ちなみにその時、私はテスト用紙にダルマを書いて「手も足も出ない」で数分で書き終えた)話しは少し横道にそれるが、私は中・高・大学(小学校の記憶がない)で作文に関して(文章の書き方)評価された事がない。句読点、敬語の使い方がでたらめ、と言われていた(未だに)。それを、亀鳴屋・勝井がすべて直している。
話しを元にもどそう。それ故、これまでのテストにおける作文には最初から点数など期待していなかった。いつも白紙のままだった。だがその時(予備校テスト)はなぜか、フトこの一節(だけ)が浮かび「ぼくの前に道はない。ぼくの後ろに道はできる」を私が勝手に返詩(返歌をもじって)として「ぼくの前に道がある。けれどもそれは受験という苦しくいやな道である。みんなに遅れまいと必死に歩きつづける。ぼくにはこの道しかないのだろうか。ぼくの後ろに道はない。大勢の人達にふみつけられて、ぼくがつけたはずの道がない。それでもぼくは前を見て必死に歩き続ける」と書いた。本当の高村光太郎の詩の内容とはちがうだろうが、未だにおぼろげに覚えているのは、あの当時(受験生)の心境をすなおに表現できたと満足していたのだろう。結果は? 覚えてないところをみると、評価ナシだったのだろう。

あれからどれだけの歳月が流れただろうか。「ぼくの前に苦しく・いやな道、大学生、職場、それでもそれに続く安定した老後への道、私の周囲が、私の兄弟がたどった道、一方そんな道から、はじき出され(勝手に飛び出したとも言える)その日ぐらしの私のたどった道」。この年になってどちらがよかったのか、そんな事は私にはわからない(もう一度人生があったら又同じ事をしそうな気もする)幸いにも私の周囲にもそんな奴(例えば○○さんの様なのが少なからずいる)、ならば「これまでの人生はいいとしても、お前にはこれから(老後)のちゃんとした道すじ(設計)があるのかー我が家の○○神」と問われ、今まで世間の有様にさんざん文句を言ってきて、「年をとったからと言って世間に対して『これからよろしくおねがいします』なんて言えるか」とカッコイイ事は言わないが、どうも、老後は世間の引いた老人への道を歩み気にならない「ぼくの前に道はないーないから何が起きるかわからず人生はおもしろい。ぼくの後ろに道はできるーこれからです(と言っておこう)」。やっぱり私のこれからの(老後の)人生も妄想とカラ元気の様だ。

追伸、前回の原稿(三十五度…) 前回私が考えに考えて書いた「子供とは」の三部作の最終章の原稿がなくなった(私の仕事場で)、鼻紙に使った記憶はないし、トイレでも使った記憶もないのに。勝井(亀鳴屋)から「原稿まだか」「原稿消えた」と言ったら「又か」といわれるのがしゃくだったので、あまりに暑くて夜眠れなかった晩に一気に書いて彼の所へ持っていった。結果、勝井「今回おもしろかった」勝井の評価はいつもこうだ。「あんな(私)の文章はあまり考えない方がおもしろい」と。私に言わせれば、何と言う事はない「妄想とカラ元気で生きている」というのが彼の共感を得た、だけだろう。たぶん今回も、冬の悪天で仕事場で泊って一気に(あまり考えず)書いたので、私の前にも後ろにも道はない」というのが彼の現状と一致して「おもしろかった」と言うのだろう。いや、それとも「お前といっしょにするな」と言うだろうか。評価は今日(冬の北陸の天気)の様なものだ。
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第五十回特別編 詩「今」