河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日間際の六十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第六十七回 「矛盾」

 「自分の母親の矛盾(戦争反対を言いながらも、その根底にある人種差別を持っていた)を、書く様な事をしていいのかな」と私の文章を読んだ人に言われた。「いいでしょう」。私自身がそうである―。社会(現代)に生きていて、「私は矛盾なく生きている」などと言う人間の方が、ウサン臭い(もっとも、亡くなった人は、皆いい人(?)としてもいいのだが)。相当に古い話なのではっきり覚えていないが、大島渚だったと思う。彼が大学紛争はげしい頃(私も大学生だった)、貴重な青春時代を犠牲にして勉強し有名大学に入った様な学生に「あなた(大島)は言っている事とやっている事がちがう。矛盾した男だ」と言われ、「私(大島)は、矛盾の多いバカな人間だが、今の体制の中で生きていて、『自分が矛盾のない人間だ』と思っているお前(学生)は本物のバカだ」と怒っていた。別に大島の肩を持つ訳ではないが、彼の指摘は当っていると思った。亡くなった私の母親が私との議論(そんなカッコのいいものでない。単なるののしり合い)で、「知識は一瞬、意識は一生」と言っていたのは、たぶん自分の奥深くに根づいてしまった意識と教育者(幼稚園長)としての知識との間の「矛盾」に気がついていたのだろう。あのいまわしい戦争を体験し新しい憲法の元で日本は再出発した。特徴の一つは戦争放棄で、一つは基本的人権の尊重である(いつものように私の話は大きくなってきた)。その基本的人権とは平等(差別のない)という事である。だがその精神が今日まで守られてきた事があっただろうか。今現在はどうであろうか。子供の頃からの競争原理の教育、格差当然の大人の社会、戦争反対(私の母親のように何が何でも戦争反対というのではない様だ)。その一方で学歴、男女、貧富等で他人を差別(今では差別という言葉を使うのにあまりタメライがない様だ)、これでは私の母親の世代とあまり変っていない様に思えてくる。こんな社会の中で育って(子供の頃から)、「私の生き方、考え方に何の矛盾もありません」などという人間はまずいないであろう(もちろん私を含めて)。戦後の冷戦時代が終り、これで世界が平和に向かうだろう、という考え方がおおかったのだが、一部で「これからは、宗教の違い、民族の違いによる紛争が取ってかわる」と言った意見があったが、その通りになってしまった。「宗教、民族の違い」それ自体に問題はない。問題なのは、国の統治者達がその「宗教、民族の違い」を自分達の都合のよい様に利用して、何の疑問ももたない幼い子供達の頭にその考えをたたきこむ事(教育もしくは武士道、私の母親の時代は反米愛国)であり、それが意識として長く残るのである(三つ子の魂、百までも)。
 ただ、そんな意識を、成長し、いろんな知識(考え方を知って)、そこで矛盾(その意識と知識の間の)を感じてしまう(たぶん私の事だろう)のだが、そこで立ち止まって考えだしたら、「今までの自分の存在意義がなくなる」、「これから先の自分の将来の安定が得られなくなる」等々でゴマかしてしまった。(七○年代の大学紛争が後の世代に何も残さなかったのはそのためだろう)。せめて自己の矛盾に向き合っていたならば今の世の中、ちょっとは変っていたかも。
 いつもの様にエラソウな事を書いてしまったが、私もだんだん年老いてきたら、「自分の矛盾に向き合うのも少々面倒くさくなってきた。だが「己の矛盾」と向き合う事がなくなったら私などは、すぐボケてしまうだろう。せめてそれを老後の努力目標として、あとはいつもの「カラ元気」で生きつづけようか。


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第五十回特別編 詩「今」