河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日間際の六十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第七十三回 「加齢なる我が日々(雨の日篇)」

私が仕事(養殖業)をやめてからも続いている朝食作りと我家の娘の通勤電車の駅までの送りを終えると、まずコンビニに立ち寄る。そこで100円のコーヒーを飲み、新聞を読んで、「さて本日の予定は」と一考する。計画性を持って「仕事をやめたらその後はもう決っている」とはほど遠く、すべてが行き当りバッタリである。晴耕雨読なる言葉は頭の片スミにあったけれど、今も「片スミ」のままである。たまには雨の日、図書館に寄り、本を借りる事もあるけれど読まずにそのまま返す事が多い。私とほぼ同世代の植木屋さんのように官能小説を何冊も借り、受付けで「このエロジジイ」と思われても平気な境地に私はまだ達していない。仕事をやめたからといって小心な自分が直る訳ではない様だ。 さて朝のコンビニ前は次から次へと車が入ってくるので、早々に予定を立てなければいけない。天気がよければ、リンゴ園(ナシ園もアリ。頼まれて時々手伝っている)に「今から行きます」と自己申告すれば、昼食(おにぎり二個、お茶、くだもの)を用意して待っていてくれる。あるいは前日よく釣れた(鮎)時は私がコンビニで同じようなものを買って現地に向う。だが雨の日は「自分が本当は決断力のない男だ」という事を思い知らされる。少し車を移動させ「時間もある事だしゆっくり考えるか」となる。 「自分の家にもどってたまにはゆっくりするか」というのは、これまでの養殖業という性格からして一日一度は必ず魚の御機嫌うかがいをしなければならなかったので、朝から一人で家に居るのはなんとなく気が進まない。(もともと家というのにたいして執着心がないのかもしれない)それなら同世代の仲間の家でも訪れようかと考えるが、若い頃「金がなんぼのもんじゃ」といきがっていた連中(私も龜鳴屋の勝井も)が今は老後の不安(年金が安い)をかかえ働いており、午前中から訪れて仕事のジャマをしたくない。それでもたいして忙しくない(?)ので訪れると、元々仕事ぎらいの族だから「先の事も考えずに仕事をやめたアンタはエライ。うらやましい(?)」と言われるのが関の山だろう。又逆に(今の老人社会は格差社会である)安定した老後を送っている人達の所へ行けば「やれ体のどこそこが痛い(年取ればそんなもの)、物忘れがはげしい(昔からそうだった)」という話ばかりで、あまりおもしろくない。ならば行きつけの中古釣り道具品店でも行こうかと一瞬迷った。でも数日前に寄って新品なら一本(一竿)、十万か二十万の鮎の友釣用竿が中古で三万円であったが、今日行けば私の希望価格一万円に「なるわけないだろう」と思うと今から行こうという気にはならない。結局コンビニでの長駐車は気が引けるので「海へ行こう」と車を出す。走りながらどこの海へ行こうか迷っていると、後ろの車が「もっとスピードを出せ」という様子だ。私が仕事をやめて自分のどこが変ったか気付いたのは、自分の車の運転スピードが遅くなったという点である。「せまい日本列島、そんなに急いでどこへ行く(私の好きな標語)。制限速度で走っているのに後ろからゴチャゴチャ言うな」と一人ごとを言うものの後ろから煽られて平気でいられるほど度胸はない。結局スピードを上げる。毎日決まった時間に精一杯スピードを上げ仕事にまい進する(私もそうだったかも)、仕事をやめた今そんな世の中の流れに早くもついていけなくなった様だ。 「海に向って、海に着いて何をする。何にも決めてない」。決めてなくても行ってみようと思うのが海である。石川啄木の短歌に「ふるさとの山に向いて 言う事なし ふるさとの山はありがたきかな」というのがある。別にそれほど「ありがたき」とは思っていないが、海も好きだが仕事場があった山も好きだった。(ただし仕事抜きで)四十年間近くも1000メートル近くある山(医王山)のふもとで養魚場を営み、そこで色々な動植物と関わり、毎年四季それぞれの新しい発見をした。天気のいい日はかなり遠くまで出かけて行き、その景観、雰囲気のすばらしさを、ぼんやり一人ながめていた。金沢には兼六園という日本三大名園といわれる公園があるが、私には「とても自然の景観にはおよばない」と思っている。(私は人間が造ったものには元々あまり興味がない)それが何十年も経ち、周辺での新しい発見もほとんどなくなり、日頃からの「仕事ぎらい」も重なってそこに根を張る事はできず、第二のふるさとと言えるこの地を離れた。
  ふるさとの 山に向いて 問うてみる 残せしものの あるやなしやと
  夢に見て 現実なりし 山や川  うれしくもあり さみしくもあり
車を走らせ、やがて海岸を出て、ボーとして海をながめる。その時、フト過去の事がよみがえったりする。
  過ぎし日を 思い起こせと 秋の海
実は海を見に行った時のためにいつも原稿用紙とエンピツを用意してある。「ボーとしているなら、原稿を書け」(龜鳴屋の勝井のいいそうな事)と思うのだが、いつもそうはならない。「私には、原稿書くくらいならボーとしていた方がいい」のだろう。古代人(狩猟民族)も天気が悪くエモノがとれない時は海岸に出てボーとして海を見つめていただろう。(私の勝手な解釈)「お前は狩猟民族から進化していないのか」と、勝井が言いそうだが、それはどちらでもいい。今の私にはムダな時間をついやしたという気がしないのである。「父さん、気をつけて。それはボケの始まりよ」と我家の娘は真剣な顔をしていいそうだ。そしたら私はいい返してやる。「ボケと天才、俳人と廃人は紙一重じゃ」と。

  荒海や 何に怒るか 問うてみる
  波まかせ 我が人生の醜態を 怒るがごとき 今日の荒海
             

2015年10月31日

追記
今年(2015年)、ある時、「私の文章、楽しみにしています」(女性)と言われ、「十月中に書きます」と言ってしまった。
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第五十回特別編 詩「今」