河崎 徹
河崎さんは、金沢近郊の医王山(いおうぜん)で、イワナやヤマメなどの養殖と、川魚料理の店「かわべ」をやっている、そろそろ落日間際の六十代。仕事より、魚釣りやら草野球やらにうつつを抜かし、店の方は、気が乗らないと勝手に閉めてしまうのが玉にキズ。(でも料理はウマイんだな)。いつもマイペース、ままよ気ままの行きあたりばったりエッセイからは、その人柄が伝わってきます。

第七十七回 「すごい男がいたもんだ」

 毎年お盆の頃になると、同窓会の招待状が届く。当の私は小、中、高、大とまだ一度も出席した事がない。「楽しかった学生時代の先生(ほとんどが鬼籍に入る)や、当時の生徒達と食事をしながら楽しい時間を過しませんか」とどれも同じ様な文面である。楽しい事がなかった訳でもないが、この齢になって自分と同じ年齢のジイサン(私も)、バアサンに会いたいとはそれほど思わない。またこの齢になっても他人(ヒト)前では楽しそうに振る舞い、おいしそうに物を食べるのも得意でない(面倒くさい)。だいたい楽しい、おいしい、というのは個人的なもので「みんなといっしょにだったら楽しい、みんなが言うからおいしい」という今の風潮にはついて行きたくない。残り少ない人生、楽しい事だけをやり、自分のおいしいと思うものだけを食べて過したいと思っている(現実はそうもいかないが)。そんな依怙地な私だが個人的に会っ話しておけばよかった、今はどうしているだろうか、と何かの機会に、フト思う人はいる(いた)。その一人が名前もしらない、後ろ姿しか見ていな い(女性だったら顔ぐらい見てただろう)、相手も私の事など絶対しらない、でもすごい奴だった。だが、その事に気がついたのは十年以上過ってからだった。周囲は「学校の勉強がいやでも将来の事を考え高校へ行きなさい」私「学歴だけで人間を評価するのはおかしい」(本心は勉強するのも、仕事につくのもいやだった。その後の私の人生も同じ)と周囲とケンカしながらも高校へ入った。その入学式での事である。広い講堂に新入生全員が集められ「高校生らしくあれ(校則に従え)」と延々と説明がなされた。持ち物、服装、はきもの、と、みんなうんざりした様子で「早く終らないか」と思いはじめた頃に私の三列前ぐらいにいた、どうみても校則違反(長めの学生服、マンボズボン、五分刈り[丸ボウズよりわずかに長い])の生徒が突然やじりだした。教師が「これはダメ」というと「それのどこが悪い」とか「ここは刑務所か」とか、みんなが緊張する。教師全員のきびしい目線がいっせいにこちらに向いている。自分の親にはいつもエラソウな事を言っている私だが、もともと小 心で教師には正面から反抗した事もない。もう怖くてじっと下を向いて教師達とは目をあわさず「早く終らないか」と願っていた。この事態を察した生徒指導の教師が「教師の言うことをよく聞き、校則を守って有意義(?)な高校生活を送る様に」としめくくった。終って教室にもどったが彼の姿はなかった。だが教室中その話で持ち切りだった。そこでクラスのだれかが教員室へのぞきにいったら、彼は大勢の教師にとり囲まれつるしあげ状態だったという。その後(入学式以後)私は彼の姿を見る事はなかった。これもクラス内の誰かの話しによると、彼はどこかの校長の一人ムスコだという事だった。彼の一日だけの反抗はその後クラスの話題になる事も、教師の側からも何も語られる事はなかった。私の方もかげで学校、教師の悪口をいいながら有意義(?)な高校生活を送った様だ。
 実は私があの彼が、すごい男だったと気がついたのはそれから十年以上過ってからである。私は高校を卒業したものの、中学から高校へ行った動機と同じく周囲の期待と自分の意志の弱さから大学院まで行った。いつか大学を「やめたい、やめたい」といいながら、ようやく中退(除籍かも)すると決心したのは、その頃に会った一人の生態学者の中学(旧制)時代の話を聞いた時だった。
 彼(奥野良之助氏・故人)の話。「私の中学(旧制)の時に終戦(敗戦)となった。それまでの私の夢は立派な軍人になる事だった。周囲のだれよりも早く正確に「教育勅語」を言えたし、クラスを代表して戦地へおもむく軍人をはげます文章を読みあげていた立派な軍国少年であった。それ故敗戦は、上の人の言う事をそのまま信じ、規則に疑問を持たずそれまで生きてきた自分には大きなショックであり、この先どう生きていけばいいかわからなかった。それ以後(敗戦以後)は先生又は自分より目上の人の言う事はまず疑ってかかった。又、戦争中軍国主義をとなえていたのに敗けたらすぐ軍国主義反対をとなえるようになった人間(教育者)は信用できなかった(私も70年代、大学合格こそが自分の進む道と疑いなく入学して、入学するや、とたんに大学解体などを叫ぶ当時の学生運動には違和感があった)。戦前、そして民主主義時代といわれる戦後も上から言われたから、規則だから正しい、守れといわれる教育は変っていない。学生(大学生)は教師の言う事は頭から信用するな。ま ずは疑ってかかれ。前回の敗戦で最も教訓としなければならないのは、上からの命令・規則を守るのではなく、自分の考え、そして自分の判断で生きていく教育であるべきだ。これは私の自分に対するいましめでもある」と、今、当時の事を思い出しながらこの文章を書いているが、やっぱりこの二人。「すごい男がいたもんだ」。

余談
 私のムスコ(父さんよりは商売がウマイと言ってはばからない自営業者)の高校時代の話。其の彼は当時はやりの教育改革での総合学科というのがある高校へ入学した(戦後から現代にいたるまでに幾度となく改革がいわれてきたが、自分達が学生の時受けてきた教育に何ら疑問を持たなかった(己の過去を肯定している)教育関係者達だから変るはずがない)。でもムスコは何らかの期待を持って入学したのだろう。
 でもたぶん私達の時代もそうであった「大学入試」のための高校生活に愛想をつかしたのだろうか、服装、髪型に乱れ(?)が目立つ様になった(言うほどの事でもなかろうと)。そのムスコがいよいよ卒業という時に問題が起きた、学校側から「お宅のムスコはこのままの髪(茶髪)では卒業式に出席させる事はできません」と校長名の親展が一度ならずも届いた。又、学校からひっきりなしの電話もあった。私は「本人に言ってくれ。もうすぐ社会人になるのだから」と取りあわなかった(実はこの件で以前私は腹立たしい思いをしたからだ。長女がある日学校(高校)側から「お宅の娘さんの紙の色が茶色なのは染めているのでは。本人は否定していますが、それなら証明しろ」と。これには親の私も母親も唖然とした。日頃の言動を見ていたらわかるだろう(ムスコとは正反対)。外からどう見ても茶髪に見えないだろう。ヤクザがいちゃもん(根拠のないのに、いいがかりをつけ相手をおどす)つけるのと同じ」と学校側の対応にあきれかえった、という事があった。ムスコはどうせ大学 へ行く気もないらしかったし、卒業させないという事でもないらしかったので、卒業式ぐらい出なくても(私も高校の卒業式には出ていない)どうという事もあるまいと思っていた。だが式の前日の夜「もし茶髪のままで出席して、「あの私の入学式での勇気ある彼≠フ様に教師に寄ってたかってつるし上げに会うのでは」と考えたら親として九に心配になってきた。式の当日、どうしたものか迷いながら朝食をつくっていたら「おはよう」といって何くわぬ顔で起きてきたムスコの髪を見てビックリ、真黒な髪である(黒く染めた)。おもわず私は叫んだ「何じゃこりゃ」。

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