この間、あるテレビドラマを見ていたら、「幸せのまっさいちゅうにいる人は、きっと、その幸せに気づくことはないのです…」というようなことを、私の大好きな女優さん、市川実日子がドラマの最後のくだりでナレーションする場面があった。その言葉に重ねて、エンディング曲の、これまた今お気に入りの唄『桃ノ花ビラ』が流れてきて、私は思わず、「ふーむ。そうであるよなぁ…」と、テレビに向かって深くうなずいた。
ところが、近ごろ、「イヤ、待てよ…。本当にそうかしらん?」と、思いはじめた。
と言うのも、このごろ、「あァァ、しあわせ」と、しみじみつぶやいてしまうような、今、自分が幸せのまっさいちゅうに居ることを実感できる瞬間にちょくちょく出くわすことがあるからだ。
ちょくちょく出くわすなんて言うと、幸せの大安売りみたいで、いかにも軽々しいけれど、悲しいかな…、私は根っからの軽薄モンで、安上がりな人間に出来ているらしい。
それは、たとえばこんなふうだ。
夢中でキーボードをたたいていて、空っぽだと知りつつも何か飲みたくなって、無意識に口に持っていったカップに、あとひと口分だけコーヒーが残っているのを発見した時。日中、とても楽しげにベビーカーをひいている若いお母さんとすれ違った時。用水沿いの道を、流れてくるゴミや空き缶を横目で見ながら歩いて、水の速度で歩けた時。パッチワークの小さな布きれを、ひと針、ひと針刺して繋いでいく時。夏の早朝、庭先でひんやりした空気を胸いっぱいに吸い込む時。一秒ごとに変わっていく朝焼けの空と向かい合っている時。すごい蝉の大群がいると思って目を凝らすと、たった一匹のアブラゼミがすぐ近くの電信柱で一所懸命に鳴いているのを発見した時。冷夏のカタキ討ちみたいにやって来た残暑9月のたそがれ時、ようやく吹いてきた秋風を窓ぎわで感じる時。深夜、チリチリ、チリチリと鳴く鈴虫の声を聴きながら一人お風呂に浸かっている時。年老いた母が、鼻唄を歌いながら掃除機をかけているのを見る時。街の景色の一部になっているみたいなおじいちゃんを見つけた時。コンビニや本屋さんで大好きな歌が突然流れてきた時。お昼ご飯を食べたあと、ちょっと横になり、スーッと夢の国に引き込まれる時。すごく疲れた日、夜、ふとんの中になだれ込む時。長期にわたる仕事がひと段落して、350ミリリットル入りの缶ビールで一人のご苦労さん会をする時。カメラのピントを合わせたお花の前で、風が止むのを待っている時。挽きたてのコーヒーの香りをかぐ時。森のなかで大木を見上げながら、木の胴にそっと触れる時。うちの近所にある、潮風の匂いがする橋を渡る時。道で笑っている人を見つけた時。朝風呂に入る時。自転車で坂を下る時。雨があがった時。エトセトラ、エトセトラ、エトセトラ…。
これらは、日常のなかの本当に何気ないひとコマだったり、ほんの零コンマ何秒という短い時間だったりするのだけれど、幸せを噛みしめるには十分だったりする。
そして、もっともしあわせだなぁと感じる時がひとつだけある。そのひとつとは、今揚げたものものとは基本的には、一番大事なところがちょっとだけ違っている。
それは、私が好きだなぁ、幸せだなぁと思うこういう瞬間を、だれかと共有できた時だ。
つまり、一人ではなく、複数の人と感情の共振があった時。
何気なく車でまちなかを走っていて、工事現場で誘導するオジチャンの、必死なのに愛嬌のある仕草を見て、同時に笑ってしまった時とか。大木の前にいっしょに佇んだ時とか。美味しいものを食べた時とか。それとは反対に、あまりのまずさに顔を見あわせてしまった時とか。「あっついねぇ」と閉口しあう時とか。……
他人である人がまったく同じ気持ちになった時というのは、長い人生の間で、その場に偶然に居合わせたことからはじまって、巡り逢わせの不思議をつくづく感じてしまう。とってもありがたいことのように思えて、冷凍のお肉が暖かい空気に触れて解凍していくように、それまで四角四面に固まっていた気持ちが柔らかになっていくのが分かる。(あ、でも、その人が、肉親や家族であったら、なおさらうれしいのです)。
それに、たとえまったく同じ気持ちになれなくても、心の扉がパタンと開いたことを、いっしょに居合わせた人がなんとなく察知してくれて、その気持ちを感じようと努力してくれたりすると、しみじみうれしくなる。
本当は、しあわせは、いつも手のなかにあるのかもしれない。
その人が幸せな人かどうかは、暮らしという「水」の奥底から湧いて出てくる、「空気の泡つぶ」みたいなちっちゃな幸せを、ちゃんと見てあげられるかどうかにかかっているのじゃないかしらん、と思う。
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