大野直子
大野さんはフリーライター。当人はいたって生真面目に人生と向き合っているんですが、ハタからは、毎日が日傘クルクル、ノーテンキといった感じに見えてしまう。そんな彼女の、脱力気分がそこはかとなく漂う生活周辺エッセイは、本日も快調でぇーす。
なお、上の写真は当人ではありません。(まぁ、わかるとは思いますが。為念。)

第十三回  息子のふり見て、の巻

 〈こっちも結構風が冷たくて寒いよ。金沢の寒さが思い出せなくてちょっと寂しい感じがします。冬も金沢に帰るね。寒くなるとなんだかワクワクしてくるよ。またいろいろ連絡するね。〉
 この一文は、寒くなりかけた秋のある日、名古屋近郊の音楽大学に通っている息子から流れてきたメールの原文である。
 私は、このメールを読んで、親バカながら驚きを禁じえなかった。だって、「金沢の寒さが思い出せなくて寂しい」「寒くなるとワクワクしてくる」なんて、なかなかの独創的感性! しかも名文ではないか!
 でも息子は、こんなことを堂々と言うのもはばかられるくらい、とことん勉強がキライな子だった。いや、過去形ではなく、現在進行形の、正真正銘の、勉強ギライの豚児だ。
 まぁ、親として、勉学だけは、百歩ゆずるとしても、なんとか「本好き」の少年になってほしいと、あの手この手で読書を薦めてみたこともある。先日も、最近ではあまりお目にかかることができなくなった純愛小説、片岡恭一の『世界の真ん中から愛を叫ぶ』を、食料品の小包の中に忍ばせて送ってみた。「面白かったよ〜」「あんな恋がしてみたいくない?」などと、誘い水のメールを再三流したにもかかわらず、結局はなしのつぶて。そのうち、姉である娘が名古屋に用事があって行った折に、本を東京に持っていってしまったらしい。きっと彼は、今までに一冊として本を読了したことがないのではないだろうか…。
 しかし、である。時どき送られてくるメールの短文がハッとするほどイイ。それに、小さい時から、描く絵は伸びやかそのもの。棟方志功なみの度迫力の構図で絵を描く。そもそも、世の中の全てのことに対して、あざとくなく、ゆったりとしている。そういえば、小さい時からポーッとしている子だった。
 保育園に通っている時、私が働いていたために、息子を園まで引き取りにいくのは、三つ年上の娘の役目だった。その娘はある日、こんなことを言って、くどいてきた。
「ママ、もう迎えに行くのヤだ。あの子、なんでもブラブラぶん回して歩くから、いろんなものをドブに落とすんだよ。保育園バックも落とすし、帽子も落とすし、この間なんか、自分がおっこっちゃったんだよ」
 通り道はちょうど水の流れていないドブだからよかったようなものの、かなりの深さがあり、落ちた物をいちいち拾わなければいけない小学二年生の娘は、きっとたまったものではなかったのだろう。しかも、本人まで落ちるなんて。本当にいやはやである。
 これは、何年もたって聞いた話なのだが、小学一年の時など、朝の通学路で相変わらずブン回しをやっていて、体操袋を落としてしまったらしい。あいにくそこはヘドロのような汚水が溜まっていたドブだったため、体操服はドロドロ。その現場をちょうど目撃していたクラスメートのお母さんは、すぐに拾って、洗濯してくださり、体育の時間までに乾かして、学校まで届けてくださったそうだ。本人はそんなことがあったことなど親にいちいち報告するような子ではない。何しろ、学校からのお知らせというものを私にほとんど見せたことがないのである。そのお母さんとスーパーでばったり会い、十年前の笑い話として体操袋事件のことを聞かされたときは、体が縮こまる思いだった。頭が下がった。
 また、小学生の四年生の頃は、自分がバスケットの天才であると信じ、学校で作った七夕の願い事の短冊に、「いつまでも天才でいられますように」と、本当に書いた。ああ…、このエッセイのタイトル、『ノーテンキ』が、いやがおうでも脳裏にちらつく…。やはり血は争えぬのものなのか…。
 しかしそんな自由奔放、底抜けノータリンである一方で、息子が中学生の時にはこんなこともあった。
 私はその頃、小さいけれど膨大とも言える件数のガイドブックの取材に飛び回っていて、家に帰るともう、口がきけないほど疲れきっていた。帰ってみれば、台所のシンクの中には夕べからの洗い物のお茶碗が山のように積まれている。そんなある日、「今日はもうご飯を作る元気がない」と家族に訴えた。すると息子は、「お母さん、オレ、洗い物してやるから、簡単なのでいいから、おかず作ってよ」。結局、やさしい言葉をかけてくれたのは、いつも先生から宿題を忘れたり、テストで悪い点を取って怒られている息子だった。きっと「人の痛み」ということを知らず知らずのうちに身をもって学んでいたのであろう。
 人には、「分(ぶん)」があると思う。「天分」、つまり、その人が持って生まれた「役割」みたいなものだ。息子の「分」は、さしずめ、いるだけで周りの空気を丸くしてしまう「分」だ。頭脳が明晰でないぶん、何かを主張したり、格好をつけるということがない。いつも失敗し、ドジを踏み、バカ話をしている。そして人に自然に甘えることができる。息子といると、人生少しくらいダラダラしててもいいじゃない、みたいに思えてきて、ホヨホヨホヨ〜ッと肩の力が抜けてくる。
 勉強はしないし、本は読まないヤツ。だけど、暗い冬が来ても寒さにワクワクできる息子を、私は密かに敬愛している。

    
なぜかモノクロフィルムで撮った3歳の息子。ここは、河北潟にある競馬場のトラックの真ん中に作られている公園だ。この公園には、子どもたちが小さいときには、近いことや無料ということもあって、よく通った。レースが始まると、我が家の子どもたちは遊具で遊ぶのをやめて、ゴール近くまで走っていき、疾走する馬をよく間近に眺めた。息子よ、競馬狂だけには、ならないでおくれよー。

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