大野直子
大野さんはフリーライター。当人はいたって生真面目に人生と向き合っているんですが、ハタからは、毎日が日傘クルクル、ノーテンキといった感じに見えてしまう。そんな彼女の、脱力気分がそこはかとなく漂う生活周辺エッセイは、本日も快調でぇーす。
なお、上の写真は当人ではありません。(まぁ、わかるとは思いますが。為念。)

第十四回  幸福のクルミの部屋、の巻

 突然だが、私の仕事部屋は四畳半だ。とても狭い。キャスターがついた椅子に腰掛けながら、左右に一メートルもズリズリズリッとずれれば、本棚の文庫本や壁に画鋲でとめてあるメモ紙など、なんにでも手が届いてしまう。
 そんなこの部屋を私は密かに、「クルミの部屋」みたいだと、思っている。思っているというのは、「クルミの部屋」と呼んでいるとか、名付けているとかまではいかず、ただ単に、この部屋が、なんだか自分の心の奥底にゴロンと転がっているクルミみたいだなぁと思っているだけだ。
 どうしてクルミなのかと言うと、クルミは殻が固いが、その中に少しだけ隙間があって、それがこの部屋と似ているような気がしてならないからだ。つまり、だれもそうやすやすとは覗くことができない小部屋……とでもいったぐらいの意味。
 あら、まぁ…。「覗けない」なんて、イカガワシイわッ。でも、それはそれ、ノーテンキな普通の主婦のこと。別段、大仰な秘密があるはずもない。ただ、この狭い部屋にいると、そこはかとなく落ち着くというだけ。のほほんとした幸福感にひたれるひとりぼっちの空気は、やっぱり私には必要だもの。
 例えば、まだまだ寒いけれど、めっきり日が延びた今日この頃。ただぼんやりと机に向かいながら窓辺に目をやり、夕方五時半の水色の空を眺めていると、気持ちの底がふつふつとよろこびだす。一日の終わりのお風呂上がりの時間。カップ入りのヨーグルトを持ち込んで、愛しの息子からメールが届いていないかしら…などと、パソコンを立ち上げる。ピロロロン。間の抜けた立ち上げの音が小さな部屋に木霊するときの、安堵感。
 そうだ。私は外で仕事をしていても、この部屋に帰っていくことをいつもうっとりと心のどこかで考えている。人にお話を聴くという、本当はもっとも苦手とすることをささやかななりわいとしてしまった私は、いつだって、イヤな仕事をそろりそろりと大過なく終わらせて、このクルミの部屋へ戻っていける時が来るのをじっと待っているのだ。
 日本人って、本来、こんな狭小な国の民族ゆえ、狭いことに関しては寛大なところ、いや、むしろそれを好む傾向があるのじゃないだろうか。だって日本人が愛して止まない茶の湯の世界の「茶室」も、あんなに狭いではないか! トイレの中や車の中も妙に落ち着く。私はこの年になっても、こたつの中にもぐるのが大好きだ。小さい頃、「赤外線は目に悪いからこたつの灯りは見ちゃいけない」と、母から言われたのに、何秒間ジィーッとこたつの赤い光を見つめていられるか……なんて、よく試したものだ。今でも、こたつの中で歌を歌ったり、ミカンを食べる。
 それから、話はちょっとずれる。私は最近よく思うのだけれども、日本人は、昔のように狭い家々に暮らしていた時代のほうが幸せだったのではないか…と。
 つまりそれはこうだ。私が今もっとも憧れているのは、テレビをつけながら、蛍光灯からヒモをぶら下げて(立ち上がって消さなくてもいいように)、茶の間に家族全員がおふとんを並べて眠るという暮らし。昔はだいたいの日本の中流家庭がこんなふうだった。でも、少しずつ日本も豊かになってきて、家がそこそこに大きくなり、食事をしたりテレビを見る部屋と眠る部屋は別々になってきた。うちもその口。一応、リビングと寝室は別だ。それが、寂しい。味気ない。
 だから、我が家では、盆と正月に、大学で余所の街に行っている子どもたちが帰ってきたときにやる唯一のたのしみは、リビングのソファーを片隅に追いやって、ふとんを敷き詰め、みんなでテレビを見ながら眠ることだ。最近では、正月三日、向田邦子の恋の物語が放映された日に映画館みたいに暗くして、それを決行した。『向田邦子の恋文』は前に読んでいて、彼女に恋人がいたという事実は知っていたが、山口智子演ずる垢抜けた向田邦子が切ない恋を展開する画像を、ぬくぬくとしたおふとんの中で、涙ながらに鑑賞した。シアワセだった。
 あらあら。お話は茶の間ではなく仕事部屋なのでした。私はまたぞろ鼻歌を歌いながら、トントントンと階段を登って、自分に逢うために、部屋へと駈け込んでいく。かそけく昭和の匂いがするクルミの部屋へ。

    
ドアの内側には、1996年の年のオードリー・ヘップバーンのカレンダーが。これはメキシコに住んでいたときのもので、わざわざ持って帰ってきたしろものだ。絶対に捨てられない。原稿を書いているときの私は、いつだってヘップバーンに見守られている。

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