大野直子
大野さんはフリーライター。当人はいたって生真面目に人生と向き合っているんですが、ハタからは、毎日が日傘クルクル、ノーテンキといった感じに見えてしまう。そんな彼女の、脱力気分がそこはかとなく漂う生活周辺エッセイは、本日も快調でぇーす。
なお、上の写真は当人ではありません。(まぁ、わかるとは思いますが。為念。)

第十五回  桜、桜、私の中の桜のつぼみの巻

 毎年、この時期になると、からだとこころがぐったりする。「やっと終わった」。そういう安堵感のような感情でいっぱいになる。
 何が終わったのか…と言うと、「桜の季節」、である。
 三月下旬、桜の便りが聞かれはじめる頃、こころもからだもソワソワしだす。家の中に居ても、仕事をしていても、まったく別のことを考えていても、たえず心のどこかが落ち着かない。まるでまだ自分の奥深くに「咲ききらない桜のつぼみ」が残っていて、そのつぼみたちが「うつつの桜たち」と、ひとりでに呼応しはじめて、私のからだの中でざわめきはじめるかのように…、だ。
 咲ききらないつぼみ、なんて言うと、年がいもないわねっ!と、思われるかもしれない。私だって、そんな言葉を口にするのは、色気の治まらないオバサンみたいで、恥ずかしい。
 でも、つらつら考えると、不思議なことに、この感情は、年とともに増してきているようなのである。つまり、年をとったからこそ、先が見えはじめたからこそ、燃え残っている自分の中のつぼみたちを、無事、咲かせてやりたい、そういう気持ちに駆られるようなのだ。
 とは言え、桜、桜と大騒ぎをするわりには、べつだん大々的にお花見をするわけでもない。ただ、仕事にでかけたついでに、兼六園裏手にある大手堀まで足を伸ばし、車のスピードをぐんとダウンさせて堀端の桜をながめながらゆっくりと走ったり。はたまた、浅野川大橋を通るときに、「さあ、さあ、見るぞ!」と、心の中で号令をかけて、首をひねり、浅野川沿いに満開に花開かせている桜並木を目の中に焼き付けるといった具合だ。そんなお花見で、心が充分満たされる。かわいいものである。
 もうちょっと私的お花見論を言うならば、古都金沢の「花見遠望」もなかなかおつなものだ。車中から遠くながめる、淡いピンク色にけぶった小高い兼六園の丘や、新緑前のまだ暗い群青色した卯辰山に、山桜がぽっ、ぽっと灯りを点したように色づく景色が、また味わい深くって、好きだ。細い小路の突き当たりに、そんな山の端の風景を見つけたときなど、この町に暮らしてよかったなぁと思う。
 そんなふうにしながら、約一、二週間、小さな自分流のお花見をたのしむ。そして、私の、「永久版つぼみ保持的体質」のからだの欲求は、ふつふつと満たされていくわけだ。しかし、今年は偶然にも、お花見を二度味わうという幸運を得てしまった。
 四月も下旬にさしかかった頃、五箇山・白川郷へ合掌造りの取材に一泊で行くことになったのである。実は、もうその頃には、金沢のソメイヨシノも終わり、私の桜騒動はずいぶんと落ち着いていた。だから、そんな仕事の依頼が来たときも、私の頭の中には桜のことなどすっかり抜け落ちていて、「本州まんなかあたりの清冽な空気を思う存分吸ってきましょ…」、ぐらいの軽い気持ちで出かけた。
 ところが、どっこい。富山県は福光の山の奥の長い長いトンネルを抜け出たかの地は、まさしく「桜まっさかり」だったのである。国道一五六号線沿いのソメイヨシノは今が見頃。遅咲きの山桜も、私の訪問に時を重ねてくれたかのように、庄川を挟んだ両側の険しい山の斜面を染めている。
 神さまからの贈りもののような桜。
 人知れず深い山里でひっそりと咲く桜の花びらは、街なかの白っぽい桜とは違って、処女のような恥じらいをもった、桃色の勝ったピンク色だった。そんな初々しい桜たちに、私の中の眠りかけていたつぼみは、再び、あわてて目を覚ました。それは、たのしい夢を見ている眠りのさいちゅうに、なにかの拍子で目を覚まして夢をかき消され、意気消沈するのだが、たまたまもう一度寝たら、ラッキーにもそのたのしい夢のつづきが見られたときのような感じ。おまけの効用は意外に大きいのである。
 そして、なによりもありがたかったのは、山あいの地であるだけに、気に入った風景をみつければ、すぐに道の脇に車を止めては、桜のもとにひょこひょこと歩み寄って、思う存分お花見ができたということだ。沿道沿いには人気も人家もほとんどなく、人目をはばかることがない。しかも、気ままな一人旅。私はなんども車を止めて、神社の境内の玉垣や、小さな小学校のフェンスによりかかりながら、桜の花の精気を浴びた。
 満開の桜にはまものが潜んでいる。だれかがそう言っていたような気がする。いや、真夜中の桜だったかな…。
 私は、目をつぶって、まものに包まれた。私の中のつぼみたちが、本懐を遂げたかのように心からよろこんだ。目をつぶった私も、きっと、不敵な笑みを浮かべていたに違いない。人が見たら、ギョッとする光景だったろうな…。ふふふふふっ。
 桜は一人で見るものだな。しみじみ、そう思った。
 でもその一方で、あまりにも、美しくて、幸せで、こんなことも思った。ほんとうのオバアサンになる前に、ほんとうに好きな人と、二人きりで桜のもとに言葉もなくたたずみたい、と。
 嗚呼、やっぱり、年がいもなく、なのである。


しずかな山里で、桜は、ひっそりと、たおやかに咲いていた。

空き地の向こうに、柔らかい新芽をだしたばかりの柳と並んでいる桜の老木を見つけた。思わず走り寄ったら、そこは小さな墓地だった。まるで死者たちの霊を吸いとっているかのように、桜は燃えていた。

つぼみが一等好きである。つぼみがつぼみを呼ぶのかな…。
 第十四回へ