大野直子
大野さんはフリーライター。当人はいたって生真面目に人生と向き合っているんですが、ハタからは、毎日が日傘クルクル、ノーテンキといった感じに見えてしまう。そんな彼女の、脱力気分がそこはかとなく漂う生活周辺エッセイは、本日も快調でぇーす。
なお、上の写真は当人ではありません。(まぁ、わかるとは思いますが。為念。)

第十九回  今年の桜は…、の巻

 今年の桜には、じりじりさせられた。
 もとより、桜というものはつくづくやっかいなものだな、と思う。
 いっそ桜なんてどうでもいいや。と、無視してしまえばいいのに、これがまたそうはいかない。無言でプレッシャーをかけてくる。手ごわい。これも千年以上にもわたるというお花見の歴史がつくってきた日本人のサガなのか…。それとも、異常なほどの桜好きのわたしのサガなのか…。
 人が人をこんなに好きになれるんだって初めて知った大学二年の切なさも、赤いランドセルを背負った娘が吸い込まれていったその先の風景も、主人のメキシコへの転勤で、これが日本の見納めかもしれないとたたずんだ上野公園の人混みの中の悲しさも、みんな、あたり一面を覆い尽くす淡いうすべに色の満開の桜へと繋がってゆく。
 ある外国の人が、春のひととき、日本は夢の国になると言ったけれど、ほんとうにそうだなぁと思う。
 ところが今春、わたしの視界にはついぞ桜がうすべに色に煙ることはなかった。季節外の、三月の雪がそうさせたのか、三月下旬になっても桜はなかなか変化を見せず、例年とは大きく異なる咲き方をした。
 我が家の台所には、裏口へ出るための扉の上に小さなはめ殺しの窓がしつらえてある。その窓からはちょうど隣の空き地に自然に生えている、まだ若木の一本の桜を見ることができる。わたしは、あるときは洗い籠のお茶碗を手ぬぐいで拭きながら、あるときはフライパンを握る手を休めながら、ヒョイとつまさき立ちの背伸びをして、「さくら、まだかな……」と、はめ殺しの窓を覗くのが習慣になった。三月の半ばから、その背伸びは始まった。
 三月末、黒い枝先に小さな花芽をつけた。でも、なかなか上がらない気温に、蕾はいっこうに膨らまず、そのうちに若葉が伸び出してきた。あれあれあれ? ちょっと待って。桜はやっぱり、きっちりうすべに色に染まってからでないと、葉の緑には染まってほしくないんだけど…。真っ白い入道雲のようなソメイヨシノが胸に刻まれているわたしは、四月、日に日に緑を多くしていくはめ殺しに、じりじりと焦った。
 結局この春の桜は、小葉を従えたソメイヨシノや、遅めの春を彩るシダレザクラ、新緑の中に咲くヤマザクラが、ほぼ時を同じくして花開いた。いつもなら順々に満たしていってくれるはずの桜の景色が、今年はあれよあれよと言う間に、いっぺんにやって来たのだ。しかも葉っぱといっしょに来たから、桜餅みたいな色合いで。それはわたしにとって、ちょっともの足りない桜だった。
 しかしある夕方、ごはんの支度をしながらはめ殺しの窓に映った終わりかけの桜を見て、ふと、自分みたいだな…、と思った。もうとっくに盛りは過ぎている桜。そう思ったら、葉桜が急に愛しくなった。
 そういえば、ごつごつとコブを蓄える老木のほうが見事な桜を咲かせるし、花吹雪になって散っていく桜も、いっそせいせいとキラキラ光っているではないか。老いというものを受け入れてしまえば、この世は、薄墨桜の、ほのかにピンクをはらんだうすずみ色に静かに輝きだすのかもしれない。夕やみとシュンシュン沸く湯気にどんどん紗(しゃ)がかかっていく桜を見ながら、ぼんやりそんなことを思った。



はめ殺しの窓から見える桜を少々いただいてきて、生けさせてもらいました(隣の地面の持ち主様、無断でごめんなさーい)。でも、毎日たっぷり愛でさせていただきました。花と葉の取り合わせも、なかなか美しいものです。
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