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(C)2003
Somekawa & vafirs

『音楽談義』

小林大助

次の3月で満59歳になる。

小学校4年生の時に3歳年上の姉に連れられ、ビートルズの主演映画A Hard days nightを見に行って衝撃を受けたのがそもそもの始まり。
その格好良さにしびれ、早速自宅の物干し台をステージに見立て、段ボール製のギターで ジョンの真似をしてtwist & shoutなんかをでたらめな英語で歌っていた。

昭和42年に中高一貫男子校に入学後、親におねだりして遂に待望のエレキを買ってもらい、丁度グループサウンズの時代だったので、 当時の名曲(想い出の渚、小さなスナック、夕日が泣いている、シーサイドバウンド等)のコード譜を使って基本的なギターコードを習得。
その後中学3年(1969年)の5月の学園祭でバンドをやろうということになり、メンバーの都合でドラムを担当、無事学園祭デビューを果たし、味をしめた。
その時演奏したのはI wanna be free, stepping stone(モンキーズ)、I saw her standing there(ビートルズ)、keep me hanging on(バニラファッジ)、white room(クリーム)等。
中3にしてはませた選曲であった。
その年の先輩バンド(高2−3)が、NHKスタジオ101でデビューした作曲家樋口康雄氏(ピコ)、愛のスカイラインのバズのボーカルの東郷昌和氏、ジョージ吾妻氏(吾妻光良の兄)を擁したスーパーバンドで、 ビートルズのRevolution, Ticket to ride, Back in the USSRやドアーズのlight my fire, スリーコードのブルースを演奏。
我々中学生達は度肝を抜かれ、ジョージ吾妻氏のギターのアドリブにも感動し、その後勉強を捨てすっかりロックにのめり込む契機となった。
学園祭で知り合った女子校の美女群にもちょっとのめり込むこととなった。

ロック狂の友人達は日夜深夜放送やFENを聞いては、英米の新しいバンドの発掘に努めていたが、自分は中でもシカゴに嵌り、高2でシカゴバンドを結成。
遂にリードギターを担当し、高校時代は平均一日3時間はギターを弾いていたような感じ。
高校生活を振り返ると、5月の学園祭バンド出演→女子高美女群に受ける→夏・恋の花咲く→秋冬・失恋→春・学園祭用バンド活動開始の繰り返しであった。

必然的に現役では大学進学できず、かといって音楽で生計を立てるのは到底無理との現実的な認識より、2浪の末二期校(当時)の外語大に漸く進学。
迷わず軽音楽部に入りバンド活動に没頭。
同時に早稲田理工に進学した高校の一年後輩の吾妻光良氏から早稲田理工のロックサークルのロッククライミングに誘われ、早稲田で吾妻のバンドのベースを2−3年担当。
管楽器を3本入れた、dirty dozenというバンドで(お金がなかったので、ベースギターを買えず、ライブハウス出演の際も借りもののベースを弾いていた)、 現在の吾妻光良&スウィンギン・バッパーズの前身みたいな楽しいバンドで、伝統的ブルース以外に、ナットキングコールやサム・クック等の楽曲もやったので、ジャンルが一気に広がった感じであった。
その時分吾妻氏の周囲に、ウィーピングハープ妹尾、小出斉、人見元基、永井ホトケ隆他のミュージシャン達がおり、本格ブルースも洗礼を受けた。外語大の軽音ではビートルズ狂の同級生と親しくなり、同氏よりアコースティックギターの良さを改めて勉強する。

1979年に社会に出てから約35年。バンド活動は断続的に続けているものの、レパートリーやギターテクニックは上述の大学卒業までの貯金で勝負しており、 今後は金沢の地でジャズやボサノバのコード習得を目指しつつ、老後のボケ防止に努めたい。

ご縁有って端野氏の伴奏係としてロブロイに出入りさせて頂いており、これからも元気に、金沢で音楽に仕事に楽しく頑張りたいと思っているので、宜しくお願いします♪         

<ロブロイストの日々>  毎・月始め更新いたします。