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Somekawa & vafirs

『ヒマラヤトレッキング追憶記 その1』

山本 氷山

2006年10月25日朝、私とKさんはヒマラヤトレッキングツアーでネパールに行くため、羽田から関西空港へ向かった。
同空港11:50発 ネパール航空RA412便に乗る予定であった。
私の荷物の中身は、登山用具は勿論、ビデオカメラ、一眼レフカメラ、三脚などなど規定の重量をかなりオーバーしていたが、何とかなるだろうと思っていた。
ところが計ってみると、なんと超過料金が5万円にもなるという。
着るものは身につけ、Kさんの荷物に一部を移動して、なんとかゲートを通過、勇躍機上の人となる予定であった。

しかし乗るべき飛行機が到着しない。
上海空港に止まったままという情報である。
遅延すること1時間、2時間、3時間……いつ着くともわからないまま、イライラ待つこと5時間、先々の不安を感じながら、とにかく飛び立った。
機内は割と空いている、まあこんなもんだろうと手足を伸ばしてリラックスしていたら、経由地の上海からドサドサと乗客が乗り込こんで来て超満員となった。
ネパール人たちは中国に出稼ぎに来ているらしい。
土産が詰まった大きな荷物を機内に持ち込むので身動きならない。
長い長い初日が過ぎ、ようやくネパールの首都カトマンドゥの「ヒマラヤホテル」に到着した。

このホテルのオーナーは宮原さんという日本人、否、既に帰化したからネパール人だ。
この宮原氏は次の宿泊地である、標高3880mの高地に建つ「ホテル・エベレスト・ビュー」の創設者でもある。
日本で出資者を募って1972年に竣工したそうだ。
これは飛行機内で私の隣に座った宮坂さんから聞いた話である。
宮坂さんは40年近く前にこのホテル建設資金を出資した一人で「発酵学」を専門とする学究の方で、長野県の銘酒「真澄」酒造のゆかりの人らしい。
宮原、宮坂とややこしいが、ホテルの話に戻すと、ホテルオーナーの宮原さんはネパールの総選挙に王室を守る政党として立候補されたそうですが、あえなく落選したとのことです。
現在のネパールは2008年に王制を廃止し共和制となっています。
というわけで宮坂さんは、40年近く前に出資したホテルオーナーの宮原さんと初対面することになり、私が記念写真を撮ってあげた。
私から見ると、当時の出資金10数万円は、今で換算すると100万円以上、なんの配当もなく、夢に出資し、40年経ってこの記念写真一枚が配当とは。
まさに乾杯だね!!

話は変わるが、見知らぬ街カトマンドゥを案内してくれたのが日本人青年の辰野君だ。
彼はネパールにほぼ永住し、現地の映像会社のカメラマンである。
私の目から見て好青年であるが独身、いろいろ訳があるらしい。
この町は標高1400mにありながら一年を通じて温暖な気候であり、貧しいが人々は活気に溢れ、行きかう車やバイクの喧騒、そしてヒンドゥー教寺院で祈る敬虔な人々や、 のんびり交差点を渡る牛などが混沌として混ざり合った奇妙に魅惑的な町だ。

日本を出て3日目カトマンドゥ空港からエベレスト街道トレッキングのため、ルクラ空港(世界中で最も離着陸しずらい空港)まで飛行機で行くのであるが、 空港で同行のKさんの荷物が無い、なんと、ホテルからのミニバンの中に置き去りにされていた。
離陸寸前のところで間に合いやれやれ。

カトマンドゥ空港にて.jpg

とにかくネパールでは何が起こるか分からない。
ともかく機上の人となるのであるが、この飛行機は操縦室丸見えのプロペラ機。
荷物の件でもたもたしていたので最後の搭乗となり前の方の席はすべて満員。
やむなく最後尾のスチューワーデス(現在はキャビンアテンダントという)の席の隣となる。
その隣にはウシシ…この話の続きは又の機会に

 
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