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 昨日12月8日は先の大戦、太平洋戦争の始まりの日であった。
 新高山登れの電文の後、真珠湾攻撃が始まり、父の乗った駆逐艦羽風は、マレー海域でイギリス艦隊と戦闘状態に入っていった。 次々と戦果を上げた後、シンガポールに入港している。その頃に前田利為中将は、ボルネオ島守備隊司令官に親歩された。父達はその後も、ラバウル港を拠点に南洋で戦っていた。アメリカ海軍が盛り返してきた18年1月23日 米潜水艦の魚雷により撃沈されたが、病人だった父は機関底から甲板に寝かされていたため、水死することなく、救助されて 病院船で手術を受け、ラバウルの戦地病院で治療を受け、やがて佐世保海軍病院に移された。
 快復後も支障が残り、戦地勤務を解かれて、横須賀海軍工機学校で再教育を受け、やがて学徒動員兵の指導教官として任に当たった。 その多くは戦死していった。高等小学校での父が帝大の学生達にディーゼル機関の操作だけ教えていたようである。戦争は、昭和20年8月15日に敗戦の日を迎えて終わった。
 父は、昭和13年に17才で舞鶴海兵団に入り、27才でこの日をむかえている。
どんな思いをしていたか、子供の頃も大人になってからも、父から聞いたこともないし、聞くこともしなかった。 周囲にはいろんな話をしていたようであるが、子供には決して話すことはなかったのである。 父が書き残した資料や軍歴などを父の死後に読み、父の年を越えた今、今一度読み返している日々である。
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父は建造中であった空母信濃の艤装作業に当たった。 信濃は横須賀海軍工廠で作られ、呉で仕上げを行うことになっていたが、出航してまもなくアメリカ空軍機に発見されて遠州灘沖で撃沈された。 教え子の多くの学徒動員兵達が戦死した。

その後は、空母龍鳳に配属されたが、幾多の攻撃で既に艦船機能を果せなくなり、呉軍港を守る防空砲台として終戦を迎えた。

この時に3月25日から4月6日まで戦艦大和に乗艦し、沖縄方面に出撃する大和乗組員の遺書と遺品を預かる任に当たった。

4月7日、大和は沖縄に向けて出撃し日向灘沖で 米軍の魚雷攻撃を受け、鹿児島県坊ノ岬沖で沈没した。

父はしばらくこの大和乗組員の遺書遺品の整理や送付の任に当たっていた。 その後、龍鳳から舞鶴海兵団に転属して

終戦を迎えている。広島に原爆が投下された8月6日には呉に居なくて、被爆することもなかったようである。

戦後、父は一旦帰郷したが、厚生省の大陸からの引揚船の要員として舞鶴港と朝鮮半島の間を往復していたとのことである。

青春時代の10年間を過ごした海軍人としての時間は、常に死を覚悟した残酷な時間であったと思う。

戦後の父は、子供にとっては、決して良い父親であったかと問われれば、そう言えない。

しかし、父の年を越えて今生きている息子として、誇りに思いたい。父よ貴方は凄かったと。

人生の最期に父は、故郷の一角に戦死した多くの上官、同僚、部下、指導した学徒動員兵達を慰霊する信濃大和慰霊園を作ろうとしていたが、完成を見届けることなく亡くなってしまった。 昨日、その園内では紅葉は全て落葉していたので、掃き集めて堆肥囲いに積み込んだ。数日で雪に埋もれるが、また、春が来て桜が咲き始めるだろう。 

子として今出来ることは、父の残した慰霊園を完成させることである。父と父を支え続けた母、その父と母を支え続けて亡くなった兄に会えた時に、頭を撫でて貰えればと思う。  平成30年12月8日 管理人

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